第32話『静寂の後で、ずれ始めた日常』
静かだった。
あの茶会から、数日。
学院は再び、
いつもの日常を取り戻した——
はずだった。
「……おはようございます、アリア様。」
すれ違う生徒が、
軽く頭を下げる。
(……前は、こんなことなかったわね。)
アリアは小さく息を吐く。
避けられているわけではない。
だが——
距離がある。
明確に。
「おはようございます。」
表情を崩さず、
形式的に返す。
相手はそれだけで満足したように去っていく。
(……楽だけど。)
(なんか、違う。)
その違和感が、
胸の奥に残る。
廊下を歩く。
視線は感じる。
だが——
誰も近づかない。
「……すごいですね。」
隣から声。
ルナ。
「完全に“別の存在”になってます。」
少し苦笑しながら言う。
「皮肉?」
アリアがちらりと見る。
「半分くらいは。」
素直な返答。
(この子はほんと……)
小さくため息。
だが——
嫌ではない。
むしろ、
落ち着く。
「でも——」
ルナが続ける。
「嫌ではないです。」
「……何が?」
「こうして、隣にいられることが。」
(……またそれ。)
アリアは視線を逸らす。
「勝手にいなさい。」
ぶっきらぼうに返す。
だが——
ルナは嬉しそうに微笑む。
(なんでそれで喜ぶのよ。)
その時。
廊下の奥。
数人の貴族生徒たち。
小さな声で話している。
「……例の子よ。」
「ええ、あの決闘で——」
「しかも、ラフリ様と——」
(……またそれ。)
アリアの眉がわずかに動く。
聞こえないふりをする。
だが——
次の言葉で、
足が止まる。
「婚約とか……どうなるのかしら。」
(……は?)
一瞬、思考が止まる。
「家同士の話、もう動いてるって——」
「噂よ、噂。」
(……そんな話、聞いてない。)
胸の奥が、
わずかにざわつく。
ルナも気づいたのか、
ちらりと見る。
「……アリア様?」
「なんでもない。」
すぐに歩き出す。
だが——
(……何それ。)
(そんなイベント、無かった。)
記憶を辿る。
ゲームのシナリオ。
婚約イベントは確かにあった。
だが——
(このタイミングじゃない。)
明らかにズレている。
(……また。)
嫌な予感。
積み重なる違和感。
その全てが——
“外れている”。
その時。
「……顔色が悪い。」
低い声。
背後から。
(……来た。)
振り向かなくても分かる。
ラフリ。
「別に。」
振り返らずに答える。
「そうは見えないな。」
一歩近づく気配。
ルナがわずかに前に出る。
無言で。
アリアを守るように。
(……やめて、その動き。)
ラフリはそれを見ても何も言わない。
ただ——
「噂を聞いたか。」
静かに問う。
(やっぱりそれか。)
「……ええ。」
短く答える。
「根拠のない話よ。」
ラフリは少しだけ間を置く。
「そうだな。」
肯定。
だが——
続ける。
「だが、“動き”はある。」
(……やっぱり。)
胸の奥が、
少しだけ重くなる。
「気をつけろ。」
それだけ言う。
それ以上は、
何も言わない。
(……何よ、それ。)
説明不足。
だが——
無視できない言葉。
ルナがラフリを見る。
「……どういう意味ですか?」
少しだけ鋭い声。
ラフリは視線を返す。
「そのままだ。」
それ以上は語らない。
沈黙。
重い。
(ほんと、この人……)
アリアは小さく息を吐く。
だが——
その言葉が、
頭から離れない。
その日の帰り道。
空は静かだった。
何も変わらないように見える。
だが——
確実に。
何かが動いている。
「……アリア様。」
ルナが隣で呼ぶ。
「もし——」
少しだけ言葉を選ぶ。
「何かあっても。」
視線を向ける。
真っ直ぐに。
「私は、離れません。」
(……ほんとに。)
困った子。
だが——
その言葉は、
確かに胸に残る。
「……勝手にしなさい。」
いつもの返事。
だがその声は、
ほんの少しだけ柔らかかった。
空を見上げる。
(……また、ズレてる。)
(でも——)
目を細める。
(逃げるつもりはない。)
ゆっくりと歩き出す。
その先にあるものを、
まだ知らないまま。




