第9話『近すぎる距離と、揺れる日常』
翌日。
アストラリス学園の朝は、いつも通り静かに始まる——はずだった。
だが、アリア・ヴァレンシュタインにとっては違う。
ほんの少し。
ほんの少しだけ——何かが変わっていた。
教室の扉を開けた瞬間。
空気が、一瞬だけ張り詰めた。
だがすぐに、それは緩む。
以前のような露骨な恐怖ではない。
代わりにあるのは——距離を保った敬意。
(……あれ?)
(前より、視線が優しい……?)
(いや優しいは言い過ぎか。)
(でも明らかに“嫌われてる感じ”じゃない。)
(え、なにこれ。)
(怖いんだけど。)
席へと向かうアリア。
その一歩一歩に、周囲は自然と道を開ける。
誰もぶつからない。
誰も近づかない。
——だが。
「おはようございます、アリア様!」
(来た。)
元気な声。
振り向かなくてもわかる。
この声は——
「今日も一緒にお昼、いいですか?」
ルナ・エルフィリア。
平民出身の特待生にして——
本来ならば、“ヒロイン”である少女。
(なんでこんなに距離近いのこの子!?)
(いや昨日からおかしいでしょ絶対!!)
(フラグどこで立てた!?私なにした!?)
アリアはゆっくりと振り返る。
表情は変わらない。
完璧な令嬢の仮面。
「……好きにしなさい。」
短く、素っ気なく。
だが拒絶ではない。
「はいっ!」
ルナの顔が、ぱあっと明るくなる。
まるでそれだけで幸せと言わんばかりに。
(いやちょっと待って。)
(なんでそんな嬉しそうなの!?)
(今のどこに好感度上がる要素あった!?)
(バグってるの私じゃなくてこの子では!?)
ルナは自然な動きで、アリアの隣の席へ。
本来そこは、誰も座らないはずの場所。
(近い近い近い近い。)
(距離感バグってる!!)
(いやでも追い払うのも変だし……)
(……どうしよう。)
考えている間にも、時間は過ぎる。
授業は始まり、終わり——
そして昼休み。
当然のように、ルナは隣にいる。
「アリア様、これ美味しいですよ!」
(距離が近い!!!)
(なんで!?なんでこんなに距離近いの!?)
(ヒロインってもっとこう、控えめで可憐じゃなかった!?)
(いや可憐ではあるけど!!)
(距離がバグ!!)
その時だった。
教室の扉が、軽く開く。
「やあ、ずいぶん楽しそうだね。」
明るく、自信に満ちた声。
視線が集まる。
レオンハルト・ソレイユ。
獅子座の王子。
カリスマ性の塊のような存在。
(うわ出た。)
(太陽系男子。)
(まぶしい。)
(直視できない。)
レオンハルトは自然な動きで近づいてくる。
その視線は——アリアへ。
「昨日の件、見事だったよ。」
(……昨日?)
(あ、婚約破棄のやつか。)
(見てたんかい。)
「普通なら取り乱してもおかしくない場面だった。」
「それをあそこまで冷静に対処するとは……さすがだ。」
アリアは目を細める。
わずかに。
「……お褒めに預かり光栄ですわ。」
完璧な受け答え。
だが——
(いや内心それどころじゃなかったけどね!?)
(むしろ爆発してたけどね!?)
レオンハルトは小さく笑う。
興味深そうに。
「君は噂とは違うね。」
(そのセリフ、テンプレきた。)
(でもこれ……ちょっとまずくない?)
(好感度イベントの匂いがする。)
(やめて。)
(フラグ立てないで。)
(今それどころじゃない。)
ルナが、ほんの少しだけアリアの袖を掴む。
弱く。
でも確かに。
(……え?)
「……アリア様は、優しい方です。」
静かな声。
だが、はっきりとした意志。
レオンハルトは一瞬だけ驚き——
そして微笑む。
「なるほど。」
「それはますます興味深い。」
(やめろその興味!!)
(その興味ろくなことにならないやつ!!)
レオンハルトは軽く手を振り、去っていく。
嵐のように。
教室は再び静かになる。
(……なんだったの今。)
(情報量多すぎるんだけど。)
隣を見る。
ルナが、少しだけ顔を赤くしていた。
「……どうしました?」
「い、いえ……その……」
視線を逸らすルナ。
そして小さく。
「……取られたくないなって、思ってしまって……」
(はい?)
(今なんて?)
(ちょっと待って今の何フラグ!?)
(重くない!?)
(いやまだ軽いけど方向性が重い!!)
(え、これ……)
(私、どこに向かってるの!?!?)
窓の外、空は青く澄んでいる。
だがその裏で——
確実に、何かが変わり始めていた。
(……これ、本当にただの学園生活?)
(いや、違う。)
(もう戻れない気がする。)
そしてアリアはまだ知らない。
この“少しのズレ”が——
やがて大きな波になることを。




