8.褒め言葉
夕食の時間が近づき、私はアンネに手伝ってもらいながら身支度を整えていた。
淡いアイボリーのドレスに袖を通し、髪は全てはまとめず、後ろの一部だけを留めてもらった。
鏡に映る自分の姿は、緊張からか、旅の間よりも引き締まって見える。
なにせこの屋敷に来てから初めて、ライネオス家の面々と同じ食卓に着くのだ。
私の背筋も自然と伸びる。
そんな私の緊張を察したのか、アンネがいつもと変わらない、柔らかく落ち着いた声で話しかける。
「ルナ様、このお部屋の模様替えについてですが、奥様――クララ様にご相談したところ、許可を頂けました。カーテンや寝具については仕立て職人の、また、室内用の調度品を扱う商人の手配が終わっております。早ければ明日にでも来ていただけるかと」
「そう……ありがとう。あとでクララ様にもお礼を言わないと」
思っていたよりも話が早く進んでいることに、少しだけ驚く。
けれどここでの生活がもう始まっているのだと、改めて実感した。
アンネは頷くと、ドレスの背を整えながら何気ない調子で続ける。
「そういえば……」
ふと、アンネの手が止まり、鏡台の前に置かれたピンク色の小さな瓶に目を向ける。
「ルナ様、今日は珍しく香水をお付になられるおつもりですか? それにその瓶、セレナ様と同じものですね」
その一言に、私の胸が小さく跳ねる。
「……ええ」
アンネは私に五年仕えてくれている侍女だ。
当然セレナの好みも知っている。
いつかは聞かれるかもしれないと思っていた。
鏡越しにアンネと視線が合った私は、寂しそうに笑う。
「セレナとは、長い間ずっと一緒に過ごしてきたでしょう? だから、姉と離れるのが少し心細くて……」
けれど姉の好きな香りを身につけていれば、まるで彼女がすぐそばにいるような気がして、心が落ち着く気がするから――私がそう言うと、アンネは目元を和らげ、小さく頷いた。
「そうでしたか。無理もありませんね」
アンネに伝えた理由も、嘘じゃない。
ただ、それが全てでもない。
だから私はアンネに対して、少しだけ罪悪感を抱き、目を伏せる。
「……ルナ様、準備ができました」
アンネの声に、はっと顔を上げる。
鏡の中の私は、次期侯爵夫人としてエヴァンの隣にいるのにふさわしい装いになっていた。
私は深呼吸をして息を整え、最後に甘い香水を振りかけると、ゆっくりと立ち上がった。
この香りを纏うのは、王都を出発した日以来だ。
部屋の扉を開けると、廊下にエヴァンの姿があった。
どうやら迎えに来てくれていたらしい。
壁際に立ち、こちらを待っていたエヴァンは、私の姿を見ると小さく息を呑んだ。
けれど、さっきつけたばかりの香りが強く私から立ち上っていたからか、アンネから見えない角度でエヴァンではない笑顔を浮かべると、
「綺麗だ。似合ってる」
そして穏やかに目を細める。
「ありがとう。……エヴァンも素敵よ」
旅の間のエヴァンは、どちらかといえば実用的な格好が多かった。
色合いも落ち着いたもので、動きやすさを重視した服装だった。
けれど今夜は違う。
社交の場ほど堅苦しくはないけれど、きちんと仕立てられた上着に身を包み、どこか改まった雰囲気がある。
私がセレナを模した顔で褒めると、彼の表情がわずかに揺れた。
だけど――気のせいだったのかもしれない。
すぐに彼の顔にはカイエル殿下と同じ笑みが戻っていたから。
やがて、どちらからともなく纏っていた雰囲気を霧散させる。
エヴァンは私の手を取って歩き出す。
「正直言うとさ」
廊下進みながら、エヴァンが少しだけ照れたように口を開く。
「こんなにちゃんと着替えて食事をするの、ちょっと気恥ずかしいんだよな。普段はもっと気楽なんだよ。家族だけだし」
「……そうなの?」
「ああ。でも今日は、君がここに来た初めての日だろ? それに、俺が領地に戻った初日でもある。だからまあ……区切り、みたいなものかな。それに、母さんにも、今日くらいはちゃんとした格好で来いって言われてたし」
やがて、食堂の扉が見えてくる。
向こうには、ライネオス侯爵とクララ様が待っているはずだ。
二人には何度も会ったことがある。
クララ様は、とても優しい人だ。
朗らかな笑みはどこかセレナを彷彿とさせて、一緒に話をするだけで心が穏やかになる。
ライネオス侯爵は、あまり表情が動かない物静かな方だ。
けれど、使用人や領民を大切にする人だということは、話をすればすぐに分かった。
それでも、初めてこのライネオス邸で同じ食卓に着くのかと思うと、自然と喉が緊張で鳴った。
エヴァンは私の強張りに気づいたのか、繋いだ手の力を少しだけ強める。
「そんなに緊張するなよ」
「……分かってるわ。でも、こればっかりは」
「大丈夫。何かあっても、俺がいるから」
その言葉に胸の奥がふっと温かくなる。
――学園にいた頃も、似たようなことを言われたことがあった。
なるべく我慢はしていたつもりだけど、それでも私の短気さがそう簡単に直るはずがなく。
面倒で厄介だと目される上級生に絡まれ、かっとなって言い返してしまった時のことだ。
セレナは欠席していて、助けを望めない中一人、どうすることもできずに立ち尽くしていた。
一人でうまく対処できないなんて情けないと、自分の不甲斐なさに嫌気がさしていた。
そして場の空気が一気に張り詰めて、相手が私のことを貶し始めた瞬間――どこからともなくエヴァンが現れた。
彼は背に庇うように私の前に立つと、
「今のはルナは悪くないだろう。ルナが言ってることの方が正しい」
その後はその面倒な相手に、私よりも冷静に、理詰めで責め立て、相手はそれ以上何も言えなくなり私の前から去った。
以降は私に……というより、エヴァンとのやり取りを思い出し嫌になったのか、向こうから絡んでくることはなくなった。
後になって私は、自分の短気さをもっと直すべきだと反省していたんだけど、エヴァンはそれについて私を責めることはなかった。
『実際あれは相手の方があきらかに難癖付けてる感じだったしな。先に俺が絡まれてたら、俺はもっと切れてひどい言葉を言ってたと思うし。そう考えたら、ルナはよく頑張って対処してたと思う』
続けて、
『ま、もしも似たようなことがあったら、今度も俺が助けるよ』
と、力強く笑ってくれた。
思い出した途端、強張っていた肩の力が、少し抜ける。
隣にいる彼の存在を感じ、胸の奥で小さく震えていたものも、いつの間にか静まっていた。
傍にいる――それだけで私にとっては心強かった。
「ありがとう、エヴァン」
「礼を言われるようなこと、まだ何もしてないけど。それにうちの両親は君のことを気に入ってるから、余計な心配はいらないと思う」
やがて食堂の扉を前にして、立ち止まったエヴァンがもう一度、私を見る。
「なあ、ルナ」
「なにかしら」
彼は一拍置くと、少しだけはにかむような表情を浮かべながら口を開く。
「……今日の君、本当に綺麗だよ」
突然の誉め言葉に混乱しながらも、私は素直にお礼を言う。
「あ、えっと、ありがとう。……だけど、さっきも言ってくれたわよね……?」
私が目をぱちくりさせて尋ねたら、
「でも、『俺』が言いたかったんだ」
エヴァンはそう答えた後、ふわりと笑ってみせた。




