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偽装結婚の私たちは、互いに誰かを演じ合う―代役夫婦が本物になるまで―  作者: 春樹凜


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7.ライネオス邸



 私たちを乗せた馬車は、予定通りの日程でライネオス領にある屋敷へと到着した。


 ドキドキしながらも馬車を降りると、先に帰っていたエヴァンの両親をはじめ、そこで働く使用人の人たちからも温かく出迎えられた。


「いやぁ、いつまでも坊ちゃんがお嫁さんを連れて帰ってこないんで、心配してたんですよ!」


 料理番だというギリムという男性に頭をもみくちゃにされたエヴァンが、抗議の声を上げる。


「こらギリム。俺を坊ちゃん呼ばわりはやめろ! もう成人してるんだぞ」


 すると、彼の元乳母だったというメリーという女性のメイドが、すかさず援護する。


「私たちにとってエヴァン坊ちゃんは、いくつになっても可愛い坊ちゃんですよ」

「そうそう。なんせおしめの頃からずっと見てきたんでね。それにしてもよっぽどうちの坊ちゃんって嫌われてるか、好きな子一人口説けないほどにヘタレかと思っていたんですが。こんな綺麗な子を連れて帰ってくるなんて思ってもみなかったですよ!」

「ヘタレは余計だ。それより、いい加減に手を離せ! 俺もルナも長旅で疲れているんだ。少しは気を遣って休ませてくれよ……」

「あー、はいはい、早く愛しのルナ様と二人っきりになりたいってことですね!」


 こんなやり取りはこの屋敷では日常なのか、見守る周囲の人間の目も温かいものだった。

 ようやく解放された頃には、エヴァンは少し疲れたように、でもどこか嬉しそうな表情をしていた。


「まったくあいつらときたら。……まあ、うちはこんな感じだ。割とにぎやかだけど、慣れてくれたら助かる」


 部屋への案内役を買って出たエヴァンが、そう言いながら先を行く。


 ここはベルーナ邸とはまた違った雰囲気だ。

 ベルーナ邸では、使用人たちはいつも穏やかで優しかったけど、それは、きちんと距離を保った上でのものだったと思う。


 それに比べてこのライネオス邸は、思っていたよりずっと人との距離が近い。

 侯爵家だからもっと堅くて厳格な空気を想像していたのに、ここには、何て表現すればいいのか……温かい雑然さのようなものがあった。

 エヴァンが屋敷を歩く度、使用人たちは気さくに声をかけ、彼もそれに笑顔で応えている。

 

 彼にだけじゃない、私にも、みんなは優しく声をかけてくれる。


「何か困ったことがあればいつでも言ってくださいませ!」

「エヴァン坊ちゃんのこと、これからよろしくお願いいたします」

「ここは王都と違って随分田舎だけど、それでも飯だけはどこよりもうまい自信がありますぜ!」


 彼らの純粋すぎるほどの気遣いに、余計に胸が痛んだ。

 だからこそ私は、次期侯爵夫人としての責務から目を逸らさず、彼らの期待に応えたいと思った。


 そんな私の気持ちが分かったのか、エヴァンは一度振り返ると、こちらの顔を見て、少し困ったような、それでいてどこか柔らかく目を細める。


「そんな怖い顔するなよ。もうちょっと肩の力抜けって」

「怖いって……あなた仮にも婚約者に向かって酷い言い草ね」

「だって本当のことだろう? 眉間に皺寄せて、思いつめたような顔してさ。折角の美人が台無しだ。……ルナは笑ってる顔の方がずっと綺麗なんだから」

「……あなたにそう言われるのは、お世辞でも嬉しいわ。でも、そうね、私はセレナと同じ顔だものね」


 後ろのアンネに聞こえないように、小さな声でそう呟く。


 エヴァンは私の言葉に何も言わず、代わりにそういうことと言わんばかりに頷くと、顔を背けた。

 が、目的地に到着したのか、すぐにその場に立ち止まる。


「ここが君の部屋だ」


 私に用意された部屋は、二階の日当たりのいい一室だった。

 土地の広さの違いだろうか。

 王都に居を構える中央貴族の屋敷よりも、ライネオス邸の屋敷自体広かったけど……。

 私の部屋もまた、ベルーナ邸で使用していた自室の数倍は広かった。


「すごいわ、こんなに広い部屋を一人で使っていいの? 何て贅沢なのかしら」

「うちは田舎だからね。土地だけは余ってるから無駄に屋敷の中も部屋もデカいんだよ。でも気に入ってくれたなら何よりだ」


 エヴァンは部屋の中を軽く見回し、窓の位置や日当たりを確かめるように歩いていく。


「ここ、朝の光が綺麗に入る場所だよ。ルナが好きなカモミールの鉢植えを置くなら、この窓辺がいいと思う」


 私は少し驚きながらエヴァンを見る。

 彼が私の好きな花を知っていたのは、意外だった。     

 彼に話したことはなかったから。

 そのことを指摘したら、エヴァンはわずかに視線を逸らす。


「……君のことは大体分かってるつもりだ。なにせ、同志、だし」


 最後の方は、部屋を確認して回っているアンネに聞こえないような、小さな声で。

 そこまで知られていたことに気恥ずかしさを感じる。

 同時に申し訳なさも胸に去来する。


 エヴァンと学生時代の付き合いがあったとはいえ、私は彼の本当に好きな花も知らない。

 分かるのは、セレナが好きなスミレの花を見ている時、いつも少しだけ、苦さと甘さの混じった視線を向けていたことくらい。

 だけど、これから一緒に暮らしていくのだから、エヴァン自身の好きな物も知っていきたい――そう思った。


「ルナ、用意している装飾品とかは最低限のものだし、ベッドカバーやカーテンなんかも好みがあるだろうから、これからルナが好きに変えてくれたらいい」


 エヴァンが言い終わるや否や、部屋の確認を終えたアンネがすぐさま口を開く。


「でしたら私は、部屋の模様替えのための準備をしてまいります」

「母に言ってくれれば、全部手配はできるはずだ」

「かしこまりました」


 アンネが頭を下げて部屋から出て行く。

 

 私もエヴァンと一緒にひとしきり部屋を見て回った時、右の端に不自然な扉があることに気づく。

 不思議に思って近付き、そっとノブを回して扉を押すと、そこには同じくらいの大きさの部屋がもう一つあった。


「エヴァン、この部屋って」


 すると彼は悪びれもなく言い放った。


「そこは俺の部屋」


 あまりにも自然に告げられて、私は一瞬、言葉を失った。


「……え?」


 思わず扉とエヴァンの顔を見比べる。

 エヴァンは私の反応を見て、少しだけ肩をすくめた。


「ここは、昔から次に侯爵家を継ぐ夫婦が結婚前に使うことになっている区画なんだ。部屋が二つで一組になっていてさ」


 そこでようやく、私の顔に浮かんだ戸惑いを察したのだろう。

 エヴァンは、安心させるようにほんの少し表情を緩め、落ち着いた声で言った。


「勿論、無理に行き来するつもりはない。君の方からちゃんと鍵はかけられるから」


 そう付け加えた声は、いつも通り軽い。

 私は小さく息を吸い、ゆっくりと頷いた。


「……そう、なのね」


 ――半年後、私たちは夫婦になる。

 ここに来る前に、覚悟はしていたはずだった。

 決まっていたことなのに、今こうして隣の部屋にいると思うと、エヴァンとの距離が急に近くに感じられ、胸の奥にかすかな緊張が走る。


「あー……でもさ」


 私の顔が未だに浮かないのが分かったからだろうか。

 エヴァンが頭の後ろを掻きながら続ける。


「急に薄い扉一枚隔てただけの隣同士ってのも、困るよな。嫌だったら、部屋を替えてもらうように言って――」

「ち、違うの!」


 思わず、被せるように声が出た。


「そういう意味じゃなくて……その、ただ少し驚いただけで……。別に、嫌とか、そういうわけじゃないから! あの、もうすぐあなたと結婚するんだなっていうのが、現実味を帯びてきて、少し気恥ずかしいというか……。だから本当に、エヴァンのことが嫌な訳じゃないの!」


 必死に弁明する私を見て、エヴァンは一瞬きょとんとした。

 それから、彼はわずかに頬を赤らめて、視線を逸らす。


「……そうか。なら、いいんだけど」


 普段よりも柔らかさを帯びた声で、エヴァンは続ける。


「もし何かあったらさ、いつでも言ってくれていいから。その……眠れない日があれば、扉越しにでも、君が眠れるまで話くらい聞くし」

「……ありがとう」


 差し出された言葉に、私は素直にお礼を言った。

 エヴァンの気遣いに胸の奥に小さな明かりが灯る。


「あなたの方も、何かあったら私に話しかけてね。……次期侯爵夫人として、来たばかりの私がすぐにあなたの役には立てないだろうけど、こっちだって話とか、相談相手にならいつでもなるんだから」


 私も彼に倣って答えたら、エヴァンは途端にニヤリとした笑みを浮かべる。


「相談か……じゃあさ、例えば学生時代、君が授業中実験で失敗して爆音出したの覚えてる? 未だに語り草になってるあれのこと」

「ちょっと!? なんで今その話を持ち出すのよ。それに音は確かにすごかったけど、誰も怪我はしなかったでしょう!?」

「まあ、部屋中粉まみれになっていたし、先生も呆然としてたけどな。あの時の、頭の先からつま先まで真っ白になったまま驚いたルナの顔を思い出すと、未だに笑いが止まらなくなるんだけど、どうしたらいい?」

「そ、相談って、そういうことじゃなくて! もっと他にあるでしょう!?」

「ならあれは? 学園で他の生徒が黒板に文字を書いてた時に……」

「続きは読めたけど、そういうことでもないから!」


 エヴァンとの普段通りの会話を繰り広げているうちに、自然と私の緊張が薄まり、肩の力も抜けていく。


 完全に緊張が消えたわけじゃない。

 けれど、彼と話ながら、ここで始まる新しい生活に向けて、私は一歩、踏み出すことが出来そうな気がした。



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