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偽装結婚の私たちは、互いに誰かを演じ合う―代役夫婦が本物になるまで―  作者: 春樹凜


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31/31

31.変わる日常



 例年よりも遥かに厳しい寒波が長く続き、各地の領地では作物の凍害や家畜の衰弱が相次いだと聞く。

 積雪量も多く、街道が閉ざされたことで物資の流通も滞り、被害は小さくなかったらしい。


 その中で、ライネオス領の被害は比較的軽微だった。

 元から備蓄を多く整えていたことや、防寒対策や家屋補強を徹底していたことが功を奏した。

 幸い死者は一人も出ていない。

 食料も備蓄庫に十分な余裕があり、生活に困ることもなかった。

 むしろ余剰分を、被害の大きかった近隣の領地へ分け与えたほどだ。


 農作物の被害はあったものの、この冬を乗り越えられるだけの余力は残されている。

 ライネオス領は、確かな安定を取り戻しつつあった。

 ――そう、外の世界は、明るい未来へ進んでいる。


 けれど反対に、私とエヴァンの関係はがらりと変わった。




 最近はエヴァンの書類作成の仕事を手伝わせてもらえるようになった。

 彼の使っている執務室に私の机が用意された時は、嬉しかったのを覚えている。


 部屋の隅でアンネが紅茶を淹れてくれているのを待つ間、私は自分の机の上に置かれた書面に目を通していた。

 内容を一通り確認し、最後のページをめくったところで――。

 背後から、不意に声が落ちた。


「その書類、もう確認終わったのか?」


 驚いて顔を上げ、振り返る。

 いつの間に戻ってきたのか、さっきまで席を外していたはずのエヴァンが、私のすぐ後ろに立っていた。


 扉が開いた音にも、足音にも気づかなかった。

 机に向かっていたとはいえ、こんなに近づかれるまで分からないなんて。


「……いつ戻ってきたの?」

「今さっき。集中してたみたいだから、声をかけるか迷ったんだけど」


 そう言いながら、彼は私の机に置かれた書面へ視線を落とす。

 驚いたのと、彼の息遣いをすぐ近くで感じたこと、二重の意味で早くなる鼓動を隠しながら、私は素知らぬ顔で答える。


「ええ、さっき目を通したわ。あなたの字、昔よりは読みやすくなったわね」

「それはどうも。俺の密かな努力の賜物だな」

「……努力してあれなの?」

「おい」


 そんな私とエヴァンのやり取りに、会話を聞いていたアンネが控えめな笑い声を上げる。


「ルナ様とエヴァン様は相変わらず仲がよろしいですね」


 アンネの言葉に、エヴァンが顔をしかめる。


「どこがだよ。俺は今悪口を言われたんだぞ」

「悪口じゃないわ。事実よ」

「事実でも言い方ってのがあるだろう」

「じゃあどう言えばいいのよ」

「もっとこう……こんなに綺麗な字が書けるようになるなんて頑張ったのね、とかか?」

「私は前よりも読みやすいとは言ったけど、綺麗な字だとは言ってないわ。相変わらずあなたの文字はミミズが這ったような形だもの」

「読めなかったミミズが読めるミミズになったんだから、もう少し褒めろよ」

「はいはい。すごいわねエヴァン。頑張ったのね。偉い偉い」

「……一ミリも気持ちがこもってないな」

「実際に込めていないもの」


 肩をすくめる私と憮然とするエヴァンを見て、アンネがくすりと笑った。

 使用人の前でも、侯爵夫妻の前でも、私たちはこれまでと同じようにそんな他愛のないやり取りを交わす。


 領民の前でもそれは変わらない。

 二人で視察に畑に出向いた際、一瞬だけ強く吹いた風に当てられた私たちは、同時に体を縮こませる。


「……今日は冷えるな」

「そうね、昨日は少し暖かかったのに。もう少し着込んでくればよかったわ」

「だから出かけに言ったろう」

「でも、今のあなたみたいに膨らむくらいに着込むのは、ちょっと……」

「風邪引くよりましだろう。昨夜、うるさいくらいに鼻をずるずるすすってたのはどこの誰だったかな」

「ちょっと、そんなに大きな音を立ててなんていないわ! 大げさに言わないで!」

「大げさじゃない。しっかり聞こえてた」

「っ、そうだとしても、聞こえていないふりをしなさいよ!」

「生憎俺の耳はいいもんで」


 そう言って、彼が笑いながらも私の肩に外套を掛けてくる。 

 その様子を見て、領民は仲がいいと囃し立てる。


 きっとみんなの目には、私とエヴァンは以前と変わらないように見えているはずだ。

 ――そう見えるだけだ。


 エヴァンへの気持ちに気づいて以来、私はこれまでのようにうまく振舞う自信がなくなっていた。

 だから、私は他人の目がある前では『ルナ・ライネオス』の仮面を被ることにした。

 もしも素のままの私でいれば、この気持ちはエヴァンにばれる。

 そうなったら、この関係は崩れてしまうから。


 エヴァンも同じだ。

 言葉も表情も、どこか作り物めいていて、彼もまた私と同様に、『エヴァン・ライネオス』という役を演じているのが私には分かった。

 まるで、本当の彼自身をどこかへ押しやるように。


 こうして私とエヴァンは、表向きは軽口をたたき合う仲のいい夫婦として振舞った。


 けれど二人きりになれば――私はセレナになり、彼はカイエルになる。


「それではルナ様、エヴァン様、おやすみなさいませ」


 夜の支度を整えたアンネがそう言って頭を下げると、私たちの寝室を去る。


 そうして扉が完全に閉じた瞬間、空気ががらりと変わる。

 私は一度まぶたを伏せ、顔を上げる。


「……カイエル殿下」


 その呼び方に合わせるように、彼の表情が静かに変化を見せる。


 エヴァンの顔から、エヴァンが消える。

 代わりにそこに現れるのは、穏やかで優しい、完璧な王子の微笑みだった。


「どうした、セレナ」


 彼からの一言で胸の奥がかすかに軋むが、私は彼から差し出された手を躊躇いなく取った。


 指先が重なり、彼の腕に引き寄せられる。

 彼の指が、私の顎にそっと触れた。

 反対の指先が頬をなぞり、髪をすくう。

 視線を持ち上げられ、そのまま至近距離で瞳が重なる。


 彼の瞳に映る私は、完璧なセレナに見えているはずだ。


「とても綺麗だ」


 甘さを込めた囁くような声。

 かつてはこの距離に、胸が震えるほどの幸福を感じていたのに。

 今そこにあるのは、ときめきではなく、ゆっくりと削れるような痛みだけだった。 


 それでも私は無邪気に微笑み、彼を受け入れた。



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