30.芽生え
それから数日後。
空は久しぶりに、澄んだ青を取り戻していた。
まだところどころに雪は残っているけれど、あの吹雪が嘘のように穏やかな朝だ。
頬に触れる空気は冷たいものの、太陽の光は確かに大地を温め始めている。
体調が回復した私も、ようやく屋敷の外へ出る許可が下りた。
エヴァンや医師からは無理をするなと何度も念を押されたけれど、それでもどうしても自分の目で確かめたかったのだ。
あの嵐の後、領地がどうなったのかを。
完全に雪が解けて泥と混じった道を自分の足で歩き、私とエヴァンはパルム畑のある方角へ向かう。
そして、視界に入った光景に、私はゆっくりと息を吐いた。
畑の被害は小さくなかった。
枝に残っている実はなく、全てがぬかるんだ地面に落ち、黒ずみぐちゃぐちゃにつぶれていた。
収穫できていたのは例年の三分の一ほど。
今年の収穫は、ほぼ壊滅と言っていい。
分かっていたはずなのに、思わず俯いてしまった私は、悲しさと悔しさでぐっとこぶしを握り締める。
でも……。
「そこはもうまとめて運んじまおう。残しておいても仕方ない」
「分かった! あっちの列も終わったら手伝うよ」
「今年はやられたなあ。でもまあ、命まで持っていかれなかっただけ上等だ」
畑のあちこちから、どこか明るい声が聞こえてきた。
顔を上げると、領民たちがそれぞれ手分けして片付けを進めていた。
落果したパルムを集め、傷んだ枝を整理し、次の作業のために土を整えている。
……私はもっと、沈んだ空気を想像していた。
だってあんな未曾有の大災害だ。
悲嘆に暮れ、途方に暮れ、言葉を失っているのではないかと。
実際には、誰も俯くことなく動いていた。
手を止めることなく、次に進むために。
その中に、さっきまで隣にいたはずのエヴァンもいた。
「こういう天気は滅多にないとはいえ、これから先、絶対ないとも言い切れないな。来年以降に向けて、準備もしておかないと」
「ですねぇ。簡易の覆いをもっと増やすか、風よけの柵を改良するか、もしくはパルムの収穫時期をほんの少しだけ早められるよう改良するとか」
「両親とも話はしていたんだ。けどそうなると、今度は虫の被害に遭う可能性が高い。でも……まあ、策を色々と考えてみるよ」
「さすがは頼りになりますぜ!」
「よっ、未来の侯爵様!」
「やめろよ。おだててもなにも出ないぞ」
領民たちの口調は軽く、エヴァンをほめたたえる台詞には冗談めいた笑い声さえ混じっている。
「ルナ様」
畑の様子を見ていた私は、声のした方へ振り向く。
すると年配の女性が、手を止めてこちらに歩み寄ってきた。
顔なじみの領民だ。
彼女は心配そうな顔で私の顔色を伺う。
「お体はもうよろしいんですか?」
「ええ。心配をかけてしまってごめんなさい」
「とんでもない! 無事でいてくださっただけで十分ですよ」
そう言って、彼女はほっとしたように微笑んだ。
少しの沈黙の後、私は思い切って尋ねる。
「……みんな、辛くはないの?」
彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「今年の収穫は期待してましたからねえ。あんな立派に育ってたんですもの。そりゃあ、本当は辛いですよ!」
そう答えた割には、あっさりとした声だった。
その理由は、すぐに分かった。
彼女は白い歯をにかっと見せながら言った。
「でもね、エヴァン様がいらっしゃるでしょう?」
「……エヴァンが?」
「ええ。あの方が現場に立って、『作物はまた育てればいい、まずはみんなが無事でよかった』って、真っ先に言ってくださったんです」
多分、私がまだ屋敷で療養中、一人で畑に向かった時なんだろう。
「私たちだって本当は落ち込みたいですよ。けど、ああやってエヴァン様が前を向いてくださってるのに、いつまでも下を向いてはいられませんからねえ。もちろん侯爵様や奥様も、すぐに燃料や保存食を追加で配ってくださってね。被害の大きかった家には人手も回してくれましたし……みんなで乗り越えようって、そう言ってくださったんです」
彼女はそう言ってから、少し照れたように笑った。
「でもね、それでもやっぱり、エヴァン様がああやって現場に立ってくださると、私たちも踏ん張らなきゃって思えるんですよ。エヴァン様たちがいてくださるから、みんな前を向けるんです」
視線の先では、エヴァンが数人の領民と話しながら、落ちた枝を運んでいた。
作業用の外套に身を包み、いつものように自然に人の中へ溶け込んでいる。
特別なことをしているようには見えない。
けれど、その存在だけで周囲の空気が明るくなっているのが分かった。
――やっぱり、エヴァンはすごい。
私の中で、彼への尊敬の念がますます深く根を張る。
それだけじゃない。
今度こそ、私はエヴァンや領民たちに恥じない人間になりたいと決意を新たにし、その感情を噛み締めていた、その時だった。
「ルナ」
不意に名前を呼ばれ、私は顔を向ける。
少し離れた場所に立つエヴァンが、こちらへ視線を向けていた。
彼の顔に浮かんでいるのは、普段のエヴァンらしい笑顔。
「ちょっとこっちに来てほしいんだけど」
開いた唇から紡がれるのは、どこまでも自然な声。
その場にいる誰もが、何も感じないだろう。
けれど、あの事故から目覚めて以来、彼に名前を呼ばれるたびに、私の胸の奥はいつも小さな棘が刺さったように思える。
言葉にできないほど微かで、確かにそこにある、何かを感じる。
だけど私はそれを振り払うように小さく頷き、彼の元へ歩み寄った。
「どうしたの?」
「少しだけ手を貸してほしくてな」
差し出された手と触れ合った瞬間、やっぱり胸がざわついた。
そのざわつきを抱えたまま作業に加わることになり、しばらくの間、私は領民たちと共に片付けを手伝った。
周囲に人がいる時は、そこまでおかしくない。
エヴァンはいつも通り、優しくて頼れる人だった。
誰かに声をかけ、冗談を返し、白い歯をにかっと見せて大きく笑ったり、ニヤッとした笑みを見せたり。
それなのに……エヴァンはエヴァンなのに、これまでの彼じゃないように見える。
――まるでエヴァンがエヴァンを演じているような。
そして、二人きりになった瞬間、そんなエヴァンの雰囲気が変わる。
作業の区切りがつき、人の気配が少し離れた場所へ移って私たち以外誰もいなくなった時、エヴァンが私の肩にそっと触れる。
「少し休もう。まだ本調子じゃないだろう」
心を安らげる低い声音は優しく、私のことを心から労わっているのが伝わる。
「ええ、ありがとう」
お礼を言いながら近くのベンチに座りかけたところで、ふと触れられた場所から、かすかに香りが立ち上る。
爽やかで、どこか懐かしい香り――カイエル殿下が好んでいた香水。
そういえば最近、エヴァンからその香りが立ち上る日が増えた気がする。
いや、増えたというよりも、むしろ毎日……。
「あっ……」
その事実にたった今気づいた私の体から、ゆっくりと血の気が引いていくのが分かった。
思わずくらりと倒れかけた私を、すぐにエヴァンが抱き止める。
「やっぱりまだ無理はさせられないな。横になった方がいい」
エヴァンはそう言って私を横にした後、私の頭を自分の足の上に置くといたわる様に笑った。
「これなら君の頭も痛まないだろう。気にせず、休んでいてほしい」
だけど私は、何も答えられなかった。
それでも何とか小さく頷いた後、ゆっくりと目を閉じる。
体調が悪かった私はすぐには気づけなかった。
だけど今ならはっきりと分かる。
これまでエヴァンは、二人きりになっていたって、常にカイエル殿下になっていたわけじゃない。
私もそうだ。
なのに最近のエヴァンは、声の柔らかさも距離の取り方も、触れ方も言葉の選び方も表情も、全てが、完璧に整っていた。
――それはどう見てもカイエル殿下そのもので。
そこに、エヴァンとしての彼はどこにもいない。
軽口を叩いて、時々私を困らせて。
意地悪な笑みを浮かべては、あとで照れたように目を逸らして。
そっけないくせに、不器用な優しさで寄り添ってくれていた、あの等身大の彼が……いない。
その事実に、胸の奥がひどく空いたような感覚に襲われる。
一体何がこんなにも寂しいのだろう。
違和感は、やがて確かな痛みへと変わっていく。
カイエル殿下ではなく、エヴァンに触れられて声をかけてほしいと、そう願ってしまうほどに。
その瞬間、はたと思考が止まった。
どうして私は、そんなことを思ったのだろう。
だって私が好きなのはカイエル殿下なのだ。
それを知っているからこそ、エヴァンは全力でカイエル殿下になりきってくれている。
普通なら喜ぶところだ。
それなのになぜ……。
自分自身に問いかけていたら、急に胸の奥がゆっくりとほどけ、隠していた感情が静かに姿を現す。
もしかして、私は。
私は、エヴァンのことが……。
理解した瞬間、これまで覚えていた違和感がすべてなくなり、すとんと合点がいった。
私は、ずっとエヴァンに対して何かを感じていた。
だけどその度に、気づかないようにと意識してみないふりをしてきた。
カイエル殿下のことは今でも好きだけど、その感情は、以前に比べたらもっとずっと穏やかのものなっている。
代わりに私の心を埋めているのは……エヴァンへの気持ちで。
けれど気づいたことは、私にとっては決して幸せなことじゃなかった。
呼吸が浅くなり、目の奥がさらに真っ黒に染まっていく感覚に襲われる。
この感情は、絶望の始まりだ。
だって、彼が私に求めているのは――セレナの代わりなのだから。
きっかけは間違いなく、この間の事故だ。
セレナの代わりである私が、いなくなるかもしれない。
そう思った瞬間、彼の中で押し留めていた感情が、きっと溢れそうになったのだろう……エヴァンとして生活するうえでも。
そんな自分を律するために、彼は人のいる前で普段通りのエヴァンエヴァンになり切っている。
エヴァンがこれほどまでに完璧にカイエルを演じているのは、つまり、私により完璧なセレナを求めているということ。
私は彼のセレナへの想いの強さを知っている。
なにせ、彼女のことを忘れられないからと、セレナに似ている私にプロポーズしてきたくらいなのだから。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
それでも、これは契約だ。
私が望み、彼に差し出した関係。
知らないままでいられたなら、どれほど楽だっただろう。
けれど、私が彼の傍にいて、これからも共に歩きたいのなら、私は、どんな時もセレナになり切るしかない。
彼が求めるままに、望む形のままに。
たとえその先に、どんな未来が待っていようとも。
――それが、私にできる唯一のことだから。
「ルナ? 息が乱れているけど、大丈夫?」
上から声が降ってくる。
心臓が嫌な音を立てる。
ああ、今ここにいるのは、エヴァンじゃない。
だったら私も、演じなければいけない。
私は静かに息を吸い込み、胸の奥に芽生えた感情を押し込める。
大丈夫。
できる。
意を決し、私はそっと瞼を開く。
そしてセレナを彷彿とさせる笑顔を纏い、彼女の声色で言った。
「大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
彼はそんな私を見て、遠く離れた王都にいる彼と同じ顔で笑って見せた。




