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偽装結婚の私たちは、互いに誰かを演じ合う―代役夫婦が本物になるまで―  作者: 春樹凜


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28.●罪の代償



「ルナっ!」


 叫んだ瞬間にはもう遅かった。

 白に覆われた斜面がずるりと崩れ、俺の手から離れた彼女の体が、雪と共に滑り落ちていく。


 俺は急いで手を伸ばす。

 だが、指先は虚しく空を掻くだけだった。


「ルナ――!」


 吹雪が声を奪う。

 視界の端で、彼女の身体が斜面を転がり落ち、やがて白の向こうへ消えた。


 心臓が凍りつく。

 考えるより先に、身体が動いていた。


 俺は雪に足を取られながら斜面へ踏み込み、そのまま滑るように駆け下りる。

 足場などない。

 踏みしめても踏みしめても崩れる雪が、体の動きを阻む。

 それでも止まれなかった。


 そんな中、俺はただ一つの名前だけを、胸の中で叫び続けていた。


 ――ルナ。


 視界の先、雪の中に倒れた小さな影が見えた。


「ルナ!」


 膝をつくようにしてその傍へ辿り着く。

 白に埋もれるように、彼女は横たわっていた。

 だが、返事はない。

 それどころかぴくりとも動かない。

 俺の呼吸が止まりそうになる。


「ルナ……」


 震える声で呼びかけ、肩に触れ、揺する。

 嫌な予感が、胸の奥で膨れ上がる。


「ルナ、起きろ。……ルナ!」


 もう一度強く呼ぶ。

 だが反応はない。

 その時、視界の端に赤が滲んだ。

 はっとして視線を落とすと、彼女の髪の間から、細く血が流れていた。

 彼女のすぐ後ろには、木があった。

 ここに頭を強く打ったのか、雪の上に鮮やかな赤が淡く広がっていく。


 血の量は決して多くないが、顔色は悪い。

 肌は雪よりも白く、唇は完全に色を失っている。


 指先で頬に触れた瞬間、ぞくりと背筋が粟立った。

 ――まるで人間を模した陶器の作り物のように、冷たい。

 手袋なんてしていなかった、俺よりもだ。


 嫌な音を立てる自分の心臓を一度ドンと叩き、震える手で彼女の首元に触れ、脈を探す。

 ……ある。

 かすかに、だが確かに。

 次に口元へ手をかざす。

 小さな呼吸音が、唇の隙間から漏れていた。

 だが、安堵してもいられない。


 俺は彼女の体を抱き上げる。

 あまりにも軽すぎて、胸が締め付けられる。


「……帰るぞ」


 聞こえていないと分かっていても、そう囁いた。


 雪が激しく吹き付け、風が唸る。

 斜面を登ろうと一歩踏み出した瞬間、俺の足が深く沈んだ。


「っ……」


 足首の上まで埋まる雪のせいで、踏み出すたびに足を取られる。

 それでも、止まるわけにはいかない。

 腕の中の体温が、どんどん奪われていく気がする。


「……ルナ」


 返事はないと分かっていても、それでも呼び続けながら、一歩ずつ前へと進む。


 足に雪が絡みつき、呼吸が荒くなる。

 肺が焼けるように痛い。

 だがそんなことを気にしている余裕などなかった。


「頼む、死なないでくれ……っ」


 どうにか斜面を登り切った俺は、吹雪の中、ただひたすらに屋敷を目指して走り続けた。




 部屋の中は、ひどく静かだった。


 実際窓の外では雪が吹き荒れているはずなのに、その音さえも俺の耳には届かない。

 分厚い壁と重いカーテンに遮られた室内には、ただ微かな暖炉の音と、規則的な時計の針の音だけが落ちていた。


 視線の先――ベッドの上には、ルナが横たわっている。

 頭には白い包帯が巻かれ、髪の間から覗くそれが痛々しく、俺の胸を刺した。

 俺はその傍らの椅子に腰掛け、ただ黙って彼女を見つめている。


 顔色は助け出した時に比べればマシになったとはいえ、未だに蒼白で、唇の色も薄い。

 長い睫毛は伏せられたまま、ぴくりとも動かない。

 ……どれだけ待っても、彼女は目を開けない。


 屋敷付きの主治医の言葉が、俺の頭の中で何度も繰り返される。


 頭部を強く打っているが、命に別状はない。

 出血も止まっている。

 しかし高熱が出ているため、数日は目を覚まさない可能性がある。


『死ぬことはありません』


 そうはっきり告げられた。

 そのはずなのに、胸の奥に巣食った不安は、まるで消えてくれない。


 俺はゆっくりと手を伸ばし、シーツの上に置かれたルナの手を指先でそっと触れる。


 冷たいわけじゃないけど、普段の彼女のように温かいとも言えない。

 その事実が、どうしようもなく恐ろしかった。


「……ルナ」


 俺が呼び掛けても、当然ながら返事はない。


 分かっている。

 それでも呼ばずにはいられなかった。


 俺は視線を落とし、強く唇を噛み締める。


 ――あの時の指先の感触が、今も残っている。

 雪に濡れた手袋越しに触れ、滑って離してしまった彼女の手。

 あの一瞬、もっと強く掴んでいれば、もっと早く動いていれば。


 いや、そもそも屋敷で言い合いなどしなければよかった。

 あの時、もっと優しい言葉をかけ、彼女を一人にしなければ、ルナが外へ飛び出すことなんてなかったはずだ。


「……俺のせいだ」


 低く、掠れた声が零れる。

 全部、自分のせいだ。

 守ると決めていたはずなのに、俺は何一つ守れていない。


 目を閉じると浮かんでくるのは、雪の中での彼女の笑顔。

 それから、恥ずかしそうに頬を赤らめていた顔。

 それが今は、ピクリとも動かない。


 ……ルナと共にいることを決めた時、思ったのだ。

 自分はカイエルの代わりでいいと。

 彼女が笑い、少しでも心を穏やかに保てるなら、俺は傍にいられるだけで十分だと。


 だけど、最近になって、俺の胸の奥に、どんなに抑えようとしても芽生えてくるものがあった。


 カイエルの代役として彼女を抱く時、ふとした拍子に俺自身として彼女に触れてしまう瞬間があった。

 自分を見てほしいと、思ってしまったから。

 なのにルナはそんな俺に気づいた素振りを見せるのに……拒まなかったような気がした。


 それだけじゃない。

 彼女と日常を過ごし、話をしたり笑ったり喧嘩したりする中で、時折、俺を見てくれてると錯覚することがあった。


 だから、期待してしまったのかもしれない。

 このままいけば、いつか彼女はカイエルを忘れて、俺のことを……と。


「……そんなはずないのにな」


 小さな呟き声が、暖炉の中で起こるパチパチとした音とともに部屋の中に消えていく。


 ルナのカイエルへの想いの深さは、誰よりも知っている。

 どれだけ愛していたか、どれだけ大切に想っているか。

 それを、俺はずっと見てきた。


 ルナが俺との結婚を承諾したのは、俺をカイエルの代替えとして見るためだ。

 そしてその提案をしたのは、他ならない俺だ。

 それなのに、愚かにも俺は期待した。

 全部俺の勘違いだっていうのに。


 ――その罰が、これなのかもしれない。


 胸の奥が、鈍く痛む。


「……俺のせいだ」


 もう一度、同じ言葉が零れる。


 俺がエヴァンとしてルナの心を望んでしまったからこそ、こんなことになった。

 なら……。

 俺は静かに目を閉じ、息を吐いた。


 ルナには、決して自分の心を見せない。

 彼女のために、俺はこれからもずっと、カイエルを演じ続けよう。


 甘い声で好きだと言われた時も。

 触れ合う時も。

 ルナと二人でいる時はすべてを、カイエルとして返す。


 ――それが今の俺にできる、唯一の罪滅ぼしだ。


 俺はルナの手を取ると、体温を分け与えるように強く握りしめる。


「……お願いだ、ルナ。早く目を覚ましてくれ。君のためなら俺は……」


 喉が詰まる。

 それでも、絞り出すように続けた。


「……俺という存在を、消してもいい。ルナが望むままに、完璧なカイエルを演じるから」


 だから。

 どうか。


「……戻ってきてくれ」


そう言うと、祈るように彼女の手を握り続けた。



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