26.和解
外にいた使用人の目をかいくぐって屋敷の裏手へ回り、敷地の外へ出た時は、既に地面に雪が積もっていた。
白い粒が雨のように地面に降り注ぎ、積み重なっていく。
それでも、視界はまだ利く。
――今なら、間に合う。
そう思った瞬間、胸の奥に残っていた躊躇いは消えた。
馬は出せない。
この天候の中で馬車を動かすのも無理だ。
だから私は、ただひたすらに自分の足を動かす。
外套の裾を押さえ、雪を踏みしめながら、最も近い北側の畑へ向かって走る。
呼吸が白く、荒く、胸の奥を刺すように冷たい。
それでも止まれなかった。
やがて、白の混じる視界の先に畑が見えてきたと思ったら、突然風が変わった。
びゅう、と耳を裂くような音とともに、これまで以上に強い突風が吹き抜ける。
同時に、空から落ちてくる白が一気に増えたのだ。
まるで空が裂けたかのように、雪がさらに勢いを増して降り始める。
「……っ」
顔に叩きつけられた雪の冷たさに、思わず目を細める。
手袋をしていても指先はひどく冷える。
王都で見てきたどの雪よりも激しい。
それでも足を止めずに畑へ踏み込んだ私は――そこで、息を失った。
畑一面、真っ白だった。
あの実と同じ白のはずなのに、今はただ、全てを奪う残酷な色にしか見えなかった。
枝に連なっていたはずのパルムの実は、雪を被り、強風に揺れ、重みに耐えきれずに次々と落ちていく。
ぼとり。
ぼと、ぼと。
風の鳴く音にかき消されて聞こえないはずなのに、繊細過ぎるほどの柔らかい実が地面に落ちる鈍い音が、耳に響くようだった。
「……だめ」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
私はたまらず駆け寄り、落ちた実を拾い上げる。
指先がかじかんで、うまく掴めない。
それでも無理やり両手で抱え込む。
パルムの実はひび割れていた。
落ちた衝撃で薄い皮が裂け、中の果肉が雪にまみれている。
「……っ」
震える手で、表面の雪を払う。
けれど、触れた瞬間に分かった。
指に力を入れただけで、皮が裂けたところから熟した果肉が崩れて、果汁が滲み出る。
雪と混ざり合って、ぐしゃりと潰れる。
「……やだ……」
もう一つ拾う。
また裂けている。
もう一つ。
潰れている。
どれも、同じだ。
風が吹くたび、枝が揺れ、まだ残っている実も全て落ちていく。
どうして……どうして止められないの?
だって、こんなに目の前にあるのに。
手を伸ばせば触れられるのに、私は何も守れず、助けられず、ただ見ていることしかできない。
あんなに大切に育ててきたものが、こんなにも簡単に壊れていく。
自然の前では人間なんてあまりにも小さく、止める術なんてどこにもないと思い知らされる。
唐突に、さっきのエヴァンの姿が思い出される。
ライネオス領のことをあんなにも考えていて、みんなのために全力を尽くしている彼なのだ。
そんなエヴァンが、今の状況を前にして、悔しくないはずがない。
あの時、エヴァンは本当はどういう顔をしていた?
私は彼のことを、ちゃんと見た?
表面上は冷静を装っていたエヴァン。
でも、表情をなくしたように見えたエヴァンは、多分感情が出ないように抑えていたのだろう。
声だってそうだ。
淡々と、まるで必死に自分に言い聞かせるように。
「……っ、あ……」
私は何も分かっていなかった。
気づいていなかった。
まるで幼子のように、感情のままに駄々をこねて、エヴァンを責め、屋敷を飛び出した。
――何もできないくせに。
膝の力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになる。
初めてそう理解した、その時……。
「――ルナ!」
背後から響いた聞き慣れた声は、吹き荒れる風よりも強く、鋭かった。
振り向いた私の胸が大きく跳ねる。
白く煙る視界の向こうから、雪をかき分けるようにして一人の影が駆けてくる。
姿が近づくにつれ、私は思わず目を見開いた。
「……エヴァン?」
次の瞬間。
「何やってるんだ!」
彼の怒鳴り声が、吹雪の中を裂いた。
荒い息を吐きながら駆け寄ってきたエヴァンは、信じられないものを見るような目で私を見下ろす。
彼の夜のように深い黒髪には雪が積もり、頬は冷えで赤く染まっていた。
息は白く、肩も大きく上下している。
こんなに寒いのに手袋もマフラーもせず、コートを羽織っただけの状態だ。
「どうして……ここに」
呆然と呟く私に、エヴァンは歯を食いしばる。
「アンネから報告を受けた。……様子を見に行ったら、君が部屋にいなかったって」
彼は荒い息を吐きながら、言葉を続ける。
「なのに部屋の窓は開いていて、嫌な予感がしたアンネが君のクロークを開けたら、王都から持ち込んだ防寒着がなくなっていたって。だからもしかしたらと」
「でも、私は行き先なんて誰にも……」
「足跡残したまま出ていけば、どこに向かったかくらい分かる。それに、ルナの行きそうな場所も」
下を向いた彼に釣られて足元を視線に落とすと、今にも消えてしまいそうだけど、確かに私の歩いてきた跡が残されていた。
私はエヴァンに視線を戻す。
彼は寒さに弱いのに、防寒する時間も惜しみ、薄い上着一枚引っかけて、私のために急いでここまで来てくれたのだろう。
申し訳なさに胸がいっぱいになる。
「ごめんなさいエヴァン、私のせい、よね。もしもあなたが風邪を引いてしまったら……」
そう言って頭を下げかけた途端、彼の目が強く細められ、叩きつけるような強い口調でエヴァンが遮る。
「俺のことは今どうだっていい! それより君だ! 吹雪になりそうなことくらい分かってただろう!」
体がびくりと震える。
それでも、私は視線を無残に散ったパルムへと向け、唇を小さく噛み締めながら答える。
「……畑が。少しでも、助けられるかもしれないって、そう思って。でも、私は……」
けれどその言葉を最後まで言い切る前に、
「この馬鹿!」
エヴァンがそう短く叫んだかと思うと、次の瞬間、強い腕に引き寄せられた。
「――っ」
ぎゅっと痛いほどの力で抱きしめられ、驚きで息が止まる。
私の肩に回された腕は、わずかに震えていた。
しばらく何も言わずにいたエヴァンだったけど、やがて、私の耳元で低く囁く。
「……怖かった。もしもルナに何かあったらって思ったら、いてもたってもいられなくて」
「エヴァン……」
「でも、今こうして無事でいてくれて、本当によかった」
吹雪の音に紛れてしまいそうなほど小さかったけど、彼の声には確かに私への心配と安堵の感情が混じっていた。
心配をかけてしまったことに、喉の奥が熱くなり、視界がじわりと滲む。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、エヴァン」
胸元に顔を押し付け、絞り出すようにそう言うと、エヴァンは何も言わず、ただもう一度だけ強く抱き締めた。
そして、ゆっくりと体を離したエヴァンは、いつもの調子で私の頭をくしゃりと撫で、小さく笑った。
「もう謝らなくていい。それに、君が行動を起こしたのは、心配してくれてるからだってのは分かってる。俺や、領民のことを想ってくれてるのも痛いほどに」
エヴァンはそう言った後、怒りと悲しみを混ぜたような表情で口元を歪めた。
「……俺だって、本音を言えば悔しいよ」
その声は、さっきまでの怒鳴り声とは違っていた。
エヴァンは今にも泣きそうな顔で、畑に目を向ける。
「ここで育つ農作物は、パルムも、他の作物も、俺たちにとってはただの消費される『物』じゃない。みんなの思いが込められてる。手をかけて、時間をかけて……大事に育ててきたものだ」
雪が頬を打つ。
それでも彼の声だけは、はっきりと届いた。
「だけど、自然の恩恵を受けて生きてるってことは、同時に、こうして牙をむかれた時、全部失う可能性もあるってことだ。表裏一体なんだ。この土地で生きていくってことは、それと付き合っていくってことなんだよ」
私は何も言えず、ただ彼の横顔を見つめていたら、エヴァンは私にふっと目線を向ける。
その瞳からは、さっきまで滲んでいた感情は消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、次期領主としての、揺るがない覚悟の色だった。
「でも一番悔しいのは、直接育ててきた領民たちだ。そんな中で、俺まで取り乱してどうする。領主になる俺が、誰より先に感情に呑まれて崩れるわけにはいかない」
そして、ゆっくりと言い切る。
「……作物は、また育てればいい。だけど人の命は、失ったら戻らない。だから俺が守らないといけないのは、領民たちなんだ。俺は、みんなの人生を背負っているんだから。それに、ルナの人生もだ」
まっすぐに放たれたその言葉は、吹雪の中でも揺るがなかった。
エヴァンは悔しくても悲しくても、全部飲み込んで、次期領主として全てを背負う覚悟でここに立っている。
――私は、本当に愚か者だ。
彼の隣に立ちたいと思って努力を重ねてきたつもりだけど、ここで暮らすことの本当の意味も理解できていなかった。
「……ごめんなさい。私、全然分かってなかった。あなたがどれだけ背負ってるかも……どれだけ苦しいかも」
こんな時に泣いてしまう自分がひどく情けなくて、悔しい。
それでも泣きながら、私はそんな謝罪を口にすることしかできないなんて。
だけどエヴァンは私を責めることはせず、もう一度強く抱きしめた。
「謝るなって言ったろう? 無事でいてくれただけで十分だ」
少し高めの優しい声が、私の体の芯から温めるようだった。
私たちはそのまま何も言わず、しばらく吹雪の中で抱き合っていた。




