25.衝突
領民たちと気温の話をしてから二週間ほど経った頃。
早朝、異様な空気の冷たさに、私は目を覚ます。
私よりも早く起きるエヴァンは、既に今日も隣にはいない。
そのことに少しだけ寂しさを覚えながら私は起き上がる。
夜着の上からカーディガンを羽織った姿のまま窓を開けた瞬間、頬に触れた空気に私は思わず息を呑んだ。
「……寒い」
冬の朝特有の澄んだ冷たさとは違う。
どこか張り詰めた、肌を刺すような寒さだった。
言葉と共に吐き出された息は真っ白で、冬の空気に吸い込まれていく。
見上げた空は灰色の雲に覆われている。
厚く、重く、今にも落ちてきそうなほどに低い。
王都で何度も経験した冬の、あの、雪が降る前の空気に似ていた。
「ルナ」
振り向くと、すでに着替えを済ませたエヴァンが立っていた。
けれど、部屋の中だというのに学生時代のように服を着こんでいて、表情もどこか硬い。
「やっぱり冷え込みが強いな。それに……」
隣に来たエヴァンは短く呟き、空を見る。
「先に対策をしておいて正解だった」
その言葉に、私は小さく頷いた。
一週間ほど前からエヴァンは、例年より寒さが厳しくなると判断し、両親を説得し、領地全体に寒さへの備えを指示していたのだ。
パルム収穫の前倒しもそうだけど、各家庭への燃料や防寒着、保存食の配布など。
温暖な地域故に、各家での寒さへの対策は万全ではない。
暖炉のない家だって多いから、エヴァンがそこまで目を配るのも当然だった。
加えて、少しでも天候が悪化したら絶対に外に出ないようにと通達していた。
領民たちは心配しすぎじゃないかと首を傾げていたけど、エヴァンの真剣な様子に従い、素直にそれらを受け取っていた。
だから彼らが凍死する、なんてことはないだろうけど……。
私の視線は、自然と窓の外へ向く。
遠くに広がるのは、パルムの畑。
万が一雪が降って、美しいこの土地の特産品が雪に埋もれてしまったら。
考えただけで、体の芯から冷え、背筋がぞくりと粟立つ。
どうか私の考えすぎであってほしい。
このまま冷たい風だけがこのライネオス領を吹きつけるだけで、明日には去ってくれていたらいいのに。
でも、私の願いは儚くも崩れ去る。
――昼を過ぎた頃だった。
廊下を歩いていると、突然、窓を叩く音が強くなった。
びゅう、と風が唸りを上げ、屋敷の外壁に当たる音が、まるで何かがぶつかっているように響く。
「……風が強くなってきましたね」
使用人の一人が、不安そうに窓を見上げる。
その直後。
――ぱらり。
窓の外を、白いものが横切った。
「……え」
最初は気のせいかと思った。
けれどすぐに、二度、三度と同じものが落ちてくる。
空からの、白い、細かな粒。
「……雪?」
呟いた声が、自分でも信じられないほど震えていた。
穢れを知らない白い雪が王都の建物に積もっていく様は美しく、子供の頃はセレナと窓際に並び、はしゃいだ声でその光景を見守っていた。
ある程度積もったら、雪合戦や雪だるま作りをして楽しんだものだ。
けれどここは、ライネオス領だ。
雪なんて降らないはずの土地。
それなのに、窓の外で、白が増えていく。
「……嘘でしょう」
喉が異常に乾く。
小さい頃は無邪気に喜べていた雪は、今の私の心に大きな不安の影を落とす。
私は慌てて玄関ホールへと駆け出す。
扉を開けて外へ出て手を伸ばすと、掌の上にはたくさんの雪が落ちてくる。
熱を奪う冷たい結晶を見つめながら、白いパルムの実が揺れる畑の光景が脳裏に浮かぶ。
そしてエヴァンが言っていた言葉。
『この辺の地域じゃまずないだろうけど、もしも雪でも降ろうものならすぐ傷む。この柔らかさだからな。痛めば加工品に回すことすらできない。全部廃棄だ』
そうだ、雪に触れれば、全部……。
「ルナ」
背後からエヴァンの声がした。
彼は白いものがはらはら舞い落ちる光景を見つめながら、低く、静かな声で言った。
「……もう無理だ」
一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
聞き返した私に、エヴァンは視線を外へ向けたまま続ける。
「雪が降ってきたんじゃ畑はもたない。今成ってる分は――全部駄目になる」
「……そんな」
喉が震える。
「だって……まだ分からないじゃない」
自分でも驚くほど必死な声が出る。
だって、雪は今降り始めたばかりだ。
すぐに止むかもしれない。
「ねえ、今から対策したら助かるかもしれないわ。覆いをかけるとか、後は雪を払うとか――」
「無理だ」
私の台詞は即座に、エヴァンに遮られた。
彼はようやく外の景色から私へ視線を移すと、重いため息を吐く。
その瞳は静かで、残酷なほど現実的だった。
「俺は王都にいた時に、何度も雪に見舞われた。だから分かる。これから風も雪も、ますます強くなっていく。……俺よりもルナの方が王都暮らしが長かったんだ。君も分かるだろう。今からじゃどうすることもできない」
「だけど、まだ雪は本降りじゃないわ。まだ間に合うかも」
「仮に一つ二つ守れたとしても意味はない」
「意味がないって……!」
胸の奥が焼けるように熱い。
自分の心臓を掴むようにぐっと胸元に手を当てた私は、たまらず声を荒げる。
「みんながどれだけ手をかけて育ててきたか、あなただって知ってるでしょう!? 毎日あんなに大事にして、収穫を楽しみにして――!」
「分かってる。だけどどうしようもないんだ」
静かな声で落とされた言葉に、息が詰まる。
「領民の安全は確保した。家も暖は取れる。凍死する者は出ない。ライネオス領には、いざという時のための蓄えはある。パルムがダメになったとしても、領民の生活は保障できる。それで十分だろう」
エヴァンの言葉は決して間違っていない。
雪が降らない地域において、エヴァンは領民のために最善を取った。
それでも、彼から放たれたその台詞が、私の中の何かを完全に切った。
「……十分? 十分って、なに? 作物は? あの人たちが一年かけて育ててきたものは? それが全て失われるのを、黙って見ていろって言うの?」
感情の読めない顔をしたエヴァンは黙っている。
その沈黙が、余計に耐えられなかった。
「諦めるの? あなたは将来この地を背負って立つ領主になるんでしょう? なのにそんなあなたが、今ここで指をくわえて見ているだけで本当にいいと思っているの?」
けれど彼にしては珍しい抑揚のない声で返ってきたのは、私が最も聞きたくなかった残酷な答えだった。
「……時には諦めることも必要だ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が音を立てて壊れた。
視界が歪む。
「……なによ、それ」
自分の声が、自分じゃないみたいだった。
それでも私の口から出る言葉は止まらない。
「諦めるって……あなた、あんなにみんなと一緒に頑張ってたじゃない! 毎日畑に出て、収穫を楽しみにしてたのに! それなのに――もう無理だって、終わりだって、そんな顔で!」
エヴァンの眉がわずかに動く。
でも、それだけだった。
「……ルナ」
「嫌よ。私は嫌。そんなの、認めない」
目から涙がぼろぼろと落ちる。
だけど強引に手の甲でそれを拭って、私はきっとエヴァンを睨み付ける。
「パルムがダメになっても領民の生活は保障できる? だけど、みんなで育てたあの子たちは失われるのよ!? こんなに辛いことが他にある!? まだ手を尽くせば何かできるかもしれないじゃない。救えるかもしれない。それなのに最初から諦めるなんて――!」
「ルナ」
「あなたが行かないなら、私が行くわ」
その途端、エヴァンの表情が変わった。
「……やめろ、危険すぎる! 風も雪もどんどん強くなってきてるんだ!」
「何もしないで全部失うなんて、耐えられない!」
息が乱れる。
胸が痛い。
悔しくて、悲しくて、どうしようもない。
エヴァンはしばらく黙っていたけど、やがて小さく息を吐く。
もしかしたら彼は、それなら一緒に畑に行こう、って言ってくれるかもしれないと少しだけ期待していたのに……。
「……部屋に戻っててくれ」
戻ってきたのは、感情を押し殺したような冷たい声だった。
「今、なんて」
「今のルナは冷静じゃないって言ってるんだ。本来のルナはもっと聡明だろう。俺の言ってることだって分かるはずだ。頭を冷やした方がいい」
それだけ言って、これ以上話す気はないとでも言うように視線を外す。
その態度が、まるで私はここには必要ないと言われたように思えて、胸が引き裂かれるほどに痛む。
だけど私はそれを押し殺し、静かに頷いた。
「……分かったわ」。
私は踵を返し、部屋へ戻る。
これ以上ここにいたら、本当に何か言ってはいけないことを言ってしまいそうだったから。
扉を閉めた瞬間、私は膝から崩れ落ちた。
涙が堰を切ったように溢れ、止まらない。
悔しい。
悲しい。
何もできない無力な自分が。
そして――許せない。
エヴァンが、あんな顔で諦めたことが。
どれだけ考えても、胸の奥の衝動は消えず、むしろ強さを増していく。
そして思う。
もしも一つでも救えるなら、私は――。
私は部屋のクロークを開けると、急いで防寒着を着こみ、マフラーを巻いて手袋もつける。
それからそっと部屋の扉を開けて廊下を伺う。
だけど外は常に人気がある。
これだと、私が外出したらすぐにエヴァンに知らせが届いてしまう。
それに、さっきのエヴァンとの言い合いを、ホールの奥で控えていたアンネにも見られている。
彼女のことだから、もうしばらくしたら私の様子を見に部屋にやってくるだろう。
時間がないと焦る私は、ふと部屋のすぐそばに生えている大木に目がいく。
木登りは得意じゃない。
でも、行かなきゃ。
ここで行かなかったら、私はきっと後悔する。
それに以前子猫を助けた時に上ったあの木よりは、幹も枝もしっかりしているし、運動音痴の私でも何とかなる気がする。
意を決した私は窓を開ける。
途端に、朝よりももっと冷たい、凍りつくような風が全身を打つ。
それでも私は窓枠に足をかけると、思い切って木に飛び移る。
何とか幹を伝って降りることに成功した私は、白くなりつつある世界へと一人、駆け出して行った。




