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偽装結婚の私たちは、互いに誰かを演じ合う―代役夫婦が本物になるまで―  作者: 春樹凜


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24.予兆



 手を繋いだまま歩いていると、ほどなくして畑にいた領民たちの姿が見えてきた。


「あっ、エヴァン様! ルナ様も!」


 先にこちらに気づいたのは、収穫籠を抱えた若い女性だった。

 彼女の声に反応するように、周囲で作業していた人たちが一斉に顔を上げる。


 次の瞬間――。


「……おや?」

「おお?」

「……おやおや?」


 視線が、私たちの顔ではなく、その下へと落ちていく。

 繋いだままの手に。


「……っ!」


 自分たちが何をしているのか思い出されて、心臓が跳ね上がった。


「仲がよろしいことで!」

「いやあ、朝から目の保養ですなあ」

「いいですねえ若いって!」


 口々に飛んでくる声に、たまらず私は手を引いた。


「ち、違うのよ! これは寒かったからその……」

「ルナの手はあったかいんだ。手袋代わりにちょうどいい」


 私の言い訳に被せるように、エヴァンがさらりと言う。

 顔色ひとつ変えない声音だった。

 それが余計に悔しくて、私は思わず彼を睨んだ。


 エヴァンは気にした様子もなく、ひょいっと肩をすくめる。


「なんだよ、本当のことだろう?」

「人の手を手袋の代わりだなんて、失礼にも程があるわ!」

「はいはい、ごめんって」

「誠意がこもってないわよ」

「大変申し訳ありませんでしたルナ様」

「あなた、私を馬鹿にしてるの?」

「そんなまさか!」


 エヴァンは笑いながらそう返す。


「残念」


 去る間際、誰にも聞こえないくらいの小さなひとり言が、横からぽつりと落ちた。


「――え?」


 思わず彼を見る。

 彼は一瞬だけ繋いでいた自身の手を見つめていたけど、すぐに何事もなかったように前を向き、私を置いてパルムの畑の中へと歩き出していた。


 今のは、気のせい?

 それとも――。

 胸の奥がじわりと熱くなっていく。

 だけど考える前に領民たちから名前を呼ばれ、私も急いで彼の後を追った。


 日の出とともに行われる収穫は、すでに始まっていた。

 白く艶のあるパルムの実が、冬の淡い光を受けて静かに輝いている。

 枝に連なるその姿は、まるで小さな灯りが無数に灯っているみたいだった。


「今年のは特に見事だな。やっぱり肥料を変えたのがいいのか」

「夏の日照時間と気温もちょうどいい塩梅でしたからね」

「だな。雨量も適切だった。今年は間違いなく、過去最高の出来だ」


 エヴァンと領民たちが喜びを隠しきれない声で会話をしているのを耳にしながら、私は早速収穫を始める。

 柔らかい実を傷つけないように気をつけながら、一つずつ丁寧に収穫していき、籠の底に並べていると。


「ルナ様、これ見てください!」


 声をかけられて振り向くと、以前ラリアンの畑で一番収穫していた少年のランスが、彼の手よりもはるかに大きなパルムを私の前に差し出す。


「こんなに大きいのが取れたんですよ!」

「まあ……!」


 本当に見事な大きさだった。

 手を伸ばして触れると、ひんやりとした表面が指先に伝わる。


「すごいわ。傷一つないし、色もとても綺麗」

「エヴァン様のおかげです!」


 ランスの声が聞こえたのか、少し離れた場所で作業していたエヴァンが苦笑する。


「俺一人の手柄じゃないだろ。天候や、それになにより、みんなが愛情を込めて手をかけてくれたからだ」


 その言葉に、周囲の空気が柔らかく緩む。

 こういう光景を見るたびに思う。

 彼はこの土地と領民のことが本当に大好きで、だからこそこんなにもみんなから慕われている。

 そしてこれからも、エヴァンはここで生きていくのだと。

 ――その隣に、私もいていいのだ。


 エヴァンとの未来を想像するだけで、泣きそうなくらいに温かい光に包まれていくような、そんな気がした。

 同時に、胸の奥がかすかにざわつく。

 エヴァンが本当に隣にいてほしいと求めたのは……。


 いや、これ以上考えてはいけない。

 私は私のすべきことを、するだけだ。

 エヴァンと、ここに暮らす優しくも温かな領民のために。


 しばらく収穫を続けていると、ふと声が上がった。


「そういやぁエヴァン様、最近ちょっとばかし風が冷たくないですかねぇ」


 トムが、空を見上げながら言う。


「そうなんだよなぁ」

「やっぱりちょっと寒い気がする」


 トムの言葉に呼応するように、別の者も頷く。


 どれも、何気ない会話だった。

 世間話の延長のようで、特に深刻な色はない。


「まあ、大丈夫だろう」


 誰かが笑いながら言った。


「ここは暖かい土地だしな」

「そうそう。まして雪なんて降りゃしないぜ。だろう? トムじいさん」

「わしが生まれて七十年、一度もそんなことはなかったわい」


 それに頷きながらも、別の男性がぽつりと続ける。


「……でも、パルムは寒さに弱いからなぁ」


 私は思わず顔を上げた。


 エヴァンの方を見る。

 彼は少しだけ手を止めてから、静かに口を開いた。


「この辺の地域じゃまずないだろうけど、もしも雪でも降ろうものならすぐ傷む。この柔らかさだからな。痛めば加工品に回すことすらできない。全部廃棄だ」


 エヴァンの淡々とした口調も相まって、彼の説明に私の背筋がわずかに冷える。


「だ、だけど、ここは暖かいんでしょう? それなら雪の心配なんてしなくてもいいわよ……ね?」

「まあな」


 エヴァンは一瞬だけ空を見上げた。


 本当にほんの一瞬。

 考えるような間が落ちて、それからいつもの調子で軽く笑う。


「ライネオス領のこれまでの記録を見ても、雪なんてまず降らない」


 そう言ってから、少しだけ声の調子を変えた。


「……でも、備えはしておいた方がいいな」


 エヴァンはそう言って立ち上がると、みんなの注目を自分に集めるように大きく手を叩く。

そして周囲の領民たちからの視線が集まるのを確認すると、声を張り張り上げた。


「みんな! 念のため、今年の収穫は、できるだけ早めに終わらせよう! 多少無理してでも、今成ってる分は全部収穫してしまいたい」


 領民たちは顔を見合わせ、それから力強く頷いた。


「分かりました」

「確かに、早めにやっといた方が安心ですな」

「人手ならいくらでも出します!」


 誰かが明るい声でそう言い、空気が再び和らぐ。


 エヴァンは基本的に慎重な人だけど、ここまで先回りして指示を出すことは珍しい。

 まして、まだ何も起きていないのに。


「あの、心配しすぎじゃない? 少し例年より寒く感じるからって」


 思わず小声で尋ねると、彼はこちらを見て、すぐにいつもの笑みを浮かべた。


「何もなけりゃそれでいい。全部杞憂で終われば一番だろ。多少みんなに無理させることにはなるけど、もしも何かあった時に、あの時ああしとけばよかったって悔やみたくないんだ」

「……それもそうね」


 私は少しだけ視線を遠くに向ける。


 エヴァンの心配が杞憂に終わればいいのに。

 そんな願いを込めながら、私は雲一つない穏やかな冬の空を見つめていた。



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