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偽装結婚の私たちは、互いに誰かを演じ合う―代役夫婦が本物になるまで―  作者: 春樹凜


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23/30

23.手の温もり



 朝の空気は澄み渡っていて、空には一片の雲もなかった。

 けれどその日、屋敷の玄関を出た瞬間、私はわずかに肩をすくめる。

 厚手の外套も必要ないし、吐く息が白くなることもないけど……。


「風が、いつもより少し冷たい気がするな」


 私が呟くより先に、隣に立つエヴァンが同じことを言った。


「……そうなの?」


 思わず彼の方を向くと、エヴァンは軽く首を傾げる。


「多分。ルナもそう思うだろう?」

「私には正確なことは分からないわ。ここで冬を迎えるのは今年が初めてだもの。昨日よりも寒いことは分かるけど。それでも王都よりは暖かいし」

「あっちは本当に寒かった。こっち出身の俺からしたら耐えられなかったよ。外なんて出られたもんじゃなかった」


 そう言いながらエヴァンはぶるりと身震いする。

 生徒会室で他の誰よりも服を着こんで、寒々とした外の景色を見ながら寒い寒いと唸っていた昔の彼の姿が、私の脳裏に浮かぶ。


「懐かしいわね。あなたってば暖炉の傍から絶対に離れようとしなかったもの」

「当たり前だろう。生徒会室に暖炉がなかったら、俺は冬の間は役員をやめてたな、きっと」

「でも今日はそれよりもましでしょう?」

「王都とこっちの天気なんて比べられないって。普段よりもちょっとだけ寒いってだけ。まあ、気にするほどじゃないよ」


 エヴァンはすぐにそう付け加え、いつもの調子に戻る。


「さて、今日は北側を回ろう。あっちは風が強くなりやすいから、早めに見ておきたい」

「分かったわ」


 御者が扉を開け、私が先に乗り込む。

 続いてエヴァンが隣に腰を下ろすと、合図もなしに馬車は静かに動き出した。


 向かい合って座ることもできる広さがあるのに、いつの間にか並んで座るのが当たり前になっていた。

 少し手を伸ばせば届くほど近い距離。

 数日前に感じた彼の熱を思い出して、思わず顔に血が上る。

 それをエヴァンに悟られないようにわざと髪を顔に垂らして表情を隠して、エヴァンと他愛もない話をする。


 馬車の窓から外を眺めていると、屋敷の敷地を抜け、次第に見慣れた領地の景色が広がっていくのが分かった。

 冬に入ったせいか、畑の色は秋ほど鮮やかではなくなっていた。

 それでも整然と並ぶ作物や、遠くに見える倉庫や工房の屋根は、どれも穏やかな朝の光を受けて静かに輝いていた。

 これまで王都で煌びやかな景色をたくさん見てきたけど、私はやっぱり、ライネオス領の四季が感じられるこの景色が一番好きだ。


「ルナはさ、馬車の外を眺めてる時は、いい顔してるよな」

「だって楽しいもの。それに綺麗だわ」

「そっか」


 ふと視線を感じて隣を見たら、エヴァンがふわりと笑って私を見ていた。

 まるでなにか勘違いしてしまいそうなほどの彼の笑顔に、せっかくおさまった赤みがまた戻っていくのを感じる。

 私はふいっと視線を逸らすと、再び窓の外に目線を向けた。


 やがて馬車が緩やかに揺れを小さくし、北側の区画へと入る。

 御者に停車を告げ、私たちは地面へと降り立った。


 外に出た瞬間、頬を撫でる風が、先ほどよりも少しだけ冷たい気がした。

 だけど火照った肌を冷ますのにはちょうどいい風だ。


 前に落としていた髪を耳にかけてから歩き出すと、自然とエヴァンが私の隣に並ぶ。


「そういえば、トムの腰は大丈夫かしら?」


 私が何気なく尋ねると、エヴァンはすぐに答える。


「ああ、だいぶ良くなったみたいだ。三日前に会った時も、もう平気だって笑ってたよ」

「よかった。無理をしないようにって、後でまた言っておかないと」


 トムは、今向かっている北側の畑を任されている年配の男性だ。

 収穫の初めの時期に腰を痛めてしまい、しばらく作業を控えていたのだ。

 それでも心配で畑に出てきてしまうから、何度も休むように言ってほしいと、他の領民にエヴァンが頼まれていたらしい。


 その話題が終わると、エヴァンが思い出したように口を開く。


「そうだ。昨日ミーナが、パルムの新しい運搬方法を思いついたから試してみたいって言ってたな」

「今のままでも、あまり痛まずに運べているとは思うけど……」

「とはいえ、馬車の振動にやられて、目的地に到着したころにはダメになってるのも結構あるしな」

「そうよね。どうせならもっとたくさん無傷で運びたいわよね。あんなに美味しいんだし」


 歩きながら話しているうちに、少しだけ風が強くなった。

 頬にかかる髪を押さえながら進んでいると、ふいに視界の端でエヴァンの手が動く。


「……ん」


 短く声をかけられ、足を止めると、彼は私の首元に軽く触れた。

 いつの間にか少しずれていたマフラーを、直してくれたらしい。


「今日、風が強いから。風邪でも引かれちゃたまんない」

「ありがとう。でも私よりもエヴァンの方が寒そうよ?」

「俺は平気だよ……っくしょん」


 答える最中にエヴァンの口からはくしゃみが飛び出した。


「ほら。そんなに薄着しているからよ。マフラーもしていないし。手袋とかもないの?」

「持ってきてない」

「寒がりのくせに。ちゃんと防寒対策くらいしておきなさいよね」

「うるさいなぁ、ルナは俺の母さんかよ」

「違いますー。もう、手だってこんなに……」


 触れた手も、いつもよりもひんやりとしていた。


「ほら、やっぱり冷えてるじゃない」


 言いながら、私はほとんど無意識に彼の手を両手で握っていた。

 冷たい指先に自分の体温を移すみたいに、そっと包む。

 ただそれだけの、何気ない仕草のつもりだったのに――。


 さっきまで饒舌にしゃべっていたはずのエヴァンが、急に押し黙った。


「……エヴァン?」


 呼びかけても、すぐには返事がない。

 どうしたのかと思って覗き込むと、彼はあからさまに目を逸らす。

 でも――耳が、わずかに赤い。


「……え」


 そこでようやく、私は気づいた。

 自分から彼の手を両手で包んでいることに。

 しかも、かなりしっかりと。


「っ……!」


 反射的に手を離そうとしたけれど、なぜかできなかった。

 その一瞬の間に、私の顔にも一気に熱が集まってくる。


 気まずい沈黙に包まれ、冷たい風だけがさらりと二人の間を通り抜けていく。

 私は何も話すこともできず、かといってエヴァンの手を離すこともできず、俯き固まってしまう。


 そんな中、先に口を開いたのはエヴァンだった。


「……急に照れるなよ」

「なっ……!」


 反射的に私は顔を上げる。


「そっちが先に照れたからでしょう!?」


 私が即座に言い返すも、ちらっとこちらに顔を向けたエヴァンは、素知らぬ顔で反論する。


「違う。俺は別に照れてなんてない」

「照れてたわよ! 耳だって赤くなってたし……」

「それは寒さのせいだから」

「なら今赤くなってる頬も寒さのせいだと?」

「そう。全部寒さのせい」


 即座に否定するエヴァンだけど、彼の耳はまだほんのり赤いままだ。

 一向に認めようとしないエヴァンが妙に悔しくて、私はさらに言い募った。


「だいたい私はあなたのお母さんじゃないんだけど! 私はあなたの奥さんなんだから」


 口にした途端、また顔が熱くなる。

 自分で言っておいて恥ずかしがるなんてと思うけど、私の意思とは関係なく熱くなる体は、制御不能だった。

 本当は、羞恥心でエヴァンから目を背けたかった。

 でも、彼もまた同じように赤くなりながらも、今度は私から視線を逸らさずにいるのを見て、負けたくないと変な対抗心からしっかりと見返す。


 そうしたら持っている熱はそのままに、ほんの少しだけ、エヴァンは意地悪そうに片側の唇の端を持ち上げた。


「確かに。今さらこのくらいで照れるのも変だよな」


 そして、私にしか聞こえないくらいの声でぼそりと続ける。


「もっと色々、すごいことしてるんだし」

「っ……!」


 私は反射的に彼の手をぎゅっと握りしめた。


「こんなところでそういうこと言わないでよ馬鹿っ!」

「痛っ!?」


 エヴァンが思わず声を上げる。

 けれど私は手を離さない。

 ――いや、離せない。


 彼もまた、離さなかった。


 握ったままの手が、二人の間に残る。

 やがてエヴァンが小さく息を吐いた。


「……そろそろ行くか」

「ええ」


 道の真ん中でいつまでも黙って向き合っているなんて、馬鹿げている。

 私と同じ体温になった手が離れることに名残惜しさを感じながらも、手の力を抜く。

 でも、指先を引いた瞬間、エヴァンの方がわずかに強く握り返した。


「……エヴァン?」

「このままでいいだろ。どうせ寒いし」


 私は一瞬だけ迷って、それから何も言わず、指を絡め直すと、そのまま二人で歩き出す。

 冬の風は少し冷たかったけれど、繋いだ手のぬくもりだけは、やけに確かだった。



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