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偽装結婚の私たちは、互いに誰かを演じ合う―代役夫婦が本物になるまで―  作者: 春樹凜


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19.●深まる痛み



 書斎での事務仕事を終えて、少し体を伸ばしながら歩いていたら、ルナが温室にいるのが窓から見えた。

 彼女の顔をもっと近くで見たかった俺は、はやる気持ちそのままに軽やかな足取りで温室へ向かった。

 だけどそんな気持ちは隠したまま、何気ない顔で彼女 の正面に座る。


 アンネの手によって運ばれた紅茶のカップからは、花の蜜のような香りがする。

 それだけで、ルナもセレナも好んでいたタスマン産の紅茶だと分かる。

 なのにどうしてだか、ルナの表情は固い。


 俺は理由を尋ねようとしたけど、ルナがそっとチョコレートを口に運んだ瞬間、彼女の表情が変わった。


 ルナの瞳はここではない誰かを探すように虚ろに見えるのに、瞳に浮かぶのは痛々しいまでに強い恋慕の光だった。

 ……なんで急にそんな顔になったのか、理由は分からない。

 それでも、彼女が今何を考えているのかは分かる。


 そして彼女の唇から、言葉が漏れた。


「カイエル殿下に、会いたい……」


 その声は、震えていた。  

 潤んだ瞳を隠すように、ルナは俯く。  

 彼女は唇を強く噛み締めて、涙をこらえている。


 俺の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 ルナとはここに来てから、少しずつ距離が縮まっている感覚はあった。

 それでもルナの心を動かすのは、今でも変わらない。

 カイエルだ。

 

 痛む心を押し殺し、俺はルナの前に立ってそっと声をかける。


「そんなに強く噛むな。血が出るぞ」


 声のトーンを落とし、カイエルの声を思い出しながら、できるだけ彼に近づける。  

 そうしたら跳ね返るバネのように、ルナが勢いよく顔を上げた。

 その瞳が俺を見ている。  

 でも本当に見ているのは、俺じゃない。


「殿下っ……」


 ルナが俺以外の名前を呼んで俺の方へ腕を伸ばす。

 俺は拒絶しなかった。


 ――ああ、ルナが俺自身を求めてくれたら、どれだけよかったことか。

 でも、今ルナが求めているのは、俺じゃない。  

 俺は、カイエルの代わりでしかないんだ。


 それでも俺はルナを抱きしめた。  

 最近俺が触れているような撫で方とは違う力加減で髪を撫でて、背中をさすってやる。  

 彼女が俺じゃないって勘違いできるように。

 彼女が安心できるように、優しく。


 本当なら、ルナも俺のためにセレナを演じる場面だ。

 はっきりと言葉にはしなかったが、それが、俺たちの間で交わされた約束だった。


 でも、今のルナにそんな余裕はない。

 それでいい。

 カイエルの代わりだとしても、素のルナが縋るようにこちらの体を抱きしめている――その事実だけで、俺は痛みと同じくらい、甘美な毒に侵され、幸せだと思える。

 

 ルナが少しでも笑ってくれるなら、俺はいくらでもカイエルを演じよう。

 この腕の中のルナが、俺ではなく生涯カイエルを想っていても、俺はルナの心を守りたい。


 たとえ、俺の心が千切れそうなくらいに日に日に痛みを増して、悲鳴を上げたい衝動にかられたとしても。

 俺の自己満足だとしても。


 ルナのためなら、俺はその痛みすべてに目を瞑る。

 それが俺が選んだ道だから。

 俺はルナの体温を感じながら、そっと目を閉じた。



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