18.消えない痛み
そんなある日のこと。
温室で休憩を取っていた私に、アンナが声をかける。
「明日、結婚式で着用されるドレスが届くと、仕立てをお願いしている者から連絡がありました。一度着ていただき、そこから細かく調整したいとのことです」
結婚式。
誰の、なんて分かりきっている。
もうすぐここにきて半年だ。
私はあと一カ月で、ライネオス家の人間になる。
後戻りできない現実を、目の前に突き付けられている気がした。
それでも暗い顔をするわけにはいかない。
私とエヴァンは、世間の目からは相思相愛の間柄なのだ。
私は幸せいっぱいの未来の花嫁として、わざと頬を緩め、嬉しそうに目を細める。
「そうね、楽しみだわ」
アンネは私の演技に気づいた様子はなく、喜ぶ私に微笑ましいと言わんばかりの表情を向けながら続ける。
「ルナ様。本日のお茶はタスマン産の紅茶をご用意しております。ご一緒に、カイエル殿下よりいただいたチョコレートはいかがでしょうか」
彼女の言葉に、作っていた笑顔が強張る。
そして私の胸は、高鳴ると同時にズキリと痛む。
……彼から餞別にともらったチョコを、忘れていたわけじゃない。
ただ、あれを口にしたらカイエル殿下のことを思い出してしまいそうで、意識的に避けていたのだ。
だけどいつまでも口にしないのはカイエル殿下に失礼だし、アンナにも疑われる。
「そうね、今日はそれにしようかしら」
だから私は何でもない風を装ってアンナに用意をお願いした。
ちょうどその時、エヴァンが私の前に現れた。
「あー、疲れた」
彼は今まで書斎で書類仕事をしていたらしい。
うーんと言いながら、凝り固まった体を伸ばすように腕を思いっきり上にあげつつ温室内に入ってきたエヴァンに、私は声をかける。
「お疲れ様エヴァン」
「本当に疲れたよ。昔から書類仕事ってあんまり好きじゃないんだよな。やっぱり外に出ている方が性に合ってる」
「よければ時間がある時に私にも手伝わせてほしいわ」
「それはぜひともお願いしたいね」
「ところでこれからお茶にするんだけど、エヴァンも一緒にどう?」
「いいね、ちょうど喉も乾いてたところなんだ」
エヴァンは嬉々とした表情で私の向かい側に座る。
アンネはこうなることが分かっていたのか、彼が部屋に入った時点ですでにカップを二つ用意していた。
すぐに私たちの前には、ふわりと花のような香りが漂う紅茶が置かれた。
続けてお皿には、コーヒー豆にも似た濃い色のチョコレートも並べられる。
……ああ、この香りもチョコレートも、口に入れなくても、目にしただけでカイエル殿下と最後に会ったパーティーの日の記憶が鮮やかに蘇る。
私はそっと腕を伸ばすと、薄いチョコレートを口に運ぶ。
広がるのは、私の心のような苦いもの。
けれどその奥にはわずかに甘さも感じられる。
どこか懐かしく、辛いと思っているのに甘い感情に体中が埋め尽くされて、まるで火が付いたように体の奥底から熱が沸き上がる。
忘れたくても消せない感情。
どれだけエヴァンと穏やかで幸せな時間を過ごしても、それは消えたように見えてずっと私の深層に沈んでいただけだった。
またあの陽だまりのような笑顔で私を見てほしい。
どんな些細なことでもいいから、彼と話をしたい。
声を聞きたい。
アンネも部屋から去り、エヴァンと二人だけになったからか、私の口は隠しきれない感情が漏れ出す。
「カイエル殿下に、会いたい……」
決して他人に聞かれてはいけない言葉。
それでも私は、言葉にせずにはいられなかった。
潤む瞳を隠すように俯くと、思わずぐっと唇を噛み締める。
すると、目の前にふっと影が落ちた。
「そんなに強く噛むな。血が出るぞ」
聞こえてきた声に、反射的に私は顔を上げる。
本来の彼よりも低く、それでいて落ち着きのある柔らかな声。
明るい緑の瞳が、私を視界に捕えて離さない。
――分かっているのに、私のために浮かべられた表情も、声も、今ここにいない彼のものだと錯覚するには十分だった。
「殿下っ……」
私はたまらず目の前に立つ彼に抱き着く。
鼻腔をくすぐるのは石鹸の香りだったけど、その違いすらも私は頭の外に意識的に追いやる。
彼は私の髪を撫で、背中を優しくさすってくれた。
本来なら、私も彼のために、彼が心を向けるセレナを模倣しなければいけない。
だけどそんな余裕すら、今の私にはなかった。
それでも彼は私を責めることなく、優しい声色で、ルナである私に言葉をかける。
それだけで私の心は、歪な幸福感で満たされていく。
――同じ痛みを分かち合える彼となら、このまま永遠に報われない気持ちを抱いたまま、歩いていける気がしていた。




