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偽装結婚の私たちは、互いに誰かを演じ合う―代役夫婦が本物になるまで―  作者: 春樹凜


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17.穏やかな時間



 忙しく過ごしている私たちだけど、日々の合間に、何も起こらない時間が訪れることもあった。


 雨が降ってきた午後、私は談話室の窓際で本を読んでいた。

 そうしたらいつの間にか、向かいの椅子にエヴァンも腰を下ろしていた。

 彼は私に声をかけることなく、静かに手にした書物に目を通している。

 だから私も何も言わずに、続きを読み進める。


 会話はない。

 でも、気まずさもなかった。

 ページをめくる音と、雨粒が窓ガラスを弾く音だけが、ゆっくりと流れている。

 それぞれがそれぞれのことをしているのに、同じ空間にいる。

 それだけで、妙な落ち着きがあった。


 学生の時もそうだった。

 普段はとりとめもない話をしたり、時々言い合いをしたりする私たち。

 それなのに、たまにエヴァンと二人だけになった生徒会室で二人、何も話すことなく全く別々のことをすることがあった。

 私とエヴァンの微かな息遣いだけが静寂の中にあって、それが不思議と心地いい。

 その時間が、私は密かに好きだった。


 そっと視線を上げると、エヴァンは私が見ていることにまったく気づかず、真剣な顔で本を読んでいる。

 彼の邪魔をしないように小さく笑うと、私は視線を手元に戻す。


 ――ふと、視界の端が明るくなった。

 顔を上げると、いつの間にか外は夕暮れを過ぎていて、室内にはエヴァンが灯したらしい明かりが揺れていた。

 すでに彼は席についていて、閉じていた本をもう一度開いていたところだった。


「……ありがとう」


 そう言うと、エヴァンは顔を上げもせずに答える。


「目、悪くしたら困るだろ」


 それだけなのに、不思議と胸の奥が温かくなる。

 エヴァンのおかげで、さっきよりも文字が読みやすくなっていた。


 その後、夕食の食卓では、いつも通りエヴァンと他愛もない会話が交わされる。


「そういえばさ、今朝工房の方で、新しい道具を試してたんだ」

「あら、私も呼んでくれたらよかったのに」

「君はその時間、母さんと買い出しに出てただろう。……そんなに膨れた顔するなって。明日試させてやるから」

「分かったわ。約束よ? で、使い心地はどうだったの?」

「悪くない。慣れれば、農作業が少し楽になると思う。特に年配の領民は」


 それを聞いて、私は頷く。


「よかった。みんな口では元気いっぱいだって言ってるけど、少し無理をしている気がしたから」


 そんなやり取りが、エヴァンとは自然に続く。


 夜も更けると、それぞれの部屋に戻る。

 扉を隔てた向こう側に彼の気配があるのも、私にとってはもう日常の一部だった。

 

 たまに、どちらからともなく声がかかる。


「……ルナ、起きてるか?」

「ええ。まだ」


 その言葉を合図に、お互いの部屋の扉にもたれかかり、会話が始まる夜もあった。


 夕食の時の話の続きをすることもあれば、昔の思い出話や最近あった楽しかったことなど。

 特別なことは、何も話さない。

 でも、扉越しにその声を聞きながら目を閉じると、心は静かに満たされていった。



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