15.日々の生活
こうして始まったライネオス邸での生活だけど、私が思っていた以上に日々忙しかった。
将来は侯爵夫人となる以上、屋敷の管理も私の役目になる。
使用人たちの配置や仕事の流れ、食材や備品の管理、来客や行事への対応など――私は主にクララ様に付き添いながら、それらを学び始めた。
「最初から完璧にできなくていいのよ。大切なのは、全体を見ること。細かい判断は慣れてからでいいわ」
そう言って、クララ様はいつも穏やかに微笑んでいた。
帳簿の読み方を間違えた時も、指示の順序を取り違えた時も、叱責されることはなかった。
代わりに、どうすれば分かりやすいか、どうすれば次は迷わずに済むか。
その道筋を示す手助けをしてくれる。
覚えることは多くて、頭がいっぱいになる日もあった。
それでも、不思議と苦にはならなかった。
空いた時間には、エヴァンと共に領地を回り、そこに住む人たちと顔を合わせる。
農地や工場、街の外れにある倉庫、井戸のある広場……エヴァンはどこへ行っても、必ずたくさんの人に囲まれていた。
「ラルフ、こっちはどうだ。水の回り、前より改善したか?」
「ええ、随分楽よくなりましたよ。エヴァン様が言ってくれた通り、溝を少し深くしたおかげで」
エヴァンは、ただ顔を出すだけじゃない。
相手の目を見て話を聞き、途中で遮ることもせず、時には一緒に作業をして、泥の付いた手で地面を指しながら、具体的に話を進める。
「じゃあ、次はこの辺も見直そう。来月までには人手を回せそうだから手配する」
「本当ですか?」
「最終的な判断は父がする。……でも大丈夫、説得する。必要なことだしな。約束は必ず果たすよ」
できもしないことは、エヴァンは口にしない。
だからこそ、領民たちは真剣な顔で頷いていたし、次期侯爵として慕われているんだと分かった。
屋敷に戻ってからだって、エヴァンは努力を惜しまない。
両親と顔を突き合わせ、他に何かできることはないかと話し合う。
その中に私も混ぜてもらうけど、まだまだ勉強不足だと思い知らされる。
落ち込んでいると、エヴァンはすぐに気づいて声をかけてくれる。
「分からないことがあったら、なんでも聞いてくれていいから」
「頼りなくてごめんなさい」
「そんなことは思っていないって。それにルナだって、時間が空けば資料と睨めっこしてるだろう? 努力しているのは知っているから。けどあんまり無理はするなよ」
ここに来てからのエヴァンは私にとても優しい。
いや、今だけじゃない。
彼とは学園時代からよく言い合いもしたけど、それでもいざという時は必ず私の味方になってくれたし、私が落ち込んだ時だってこうしていつも優しく声をかけてくれていた。
カイエル殿下とセレナが笑い合う姿に心臓が張り裂けそうになっている時だって、いつの間にかエヴァンが隣にいた。
同族だからお互いの気持ちはよく分かったし、エヴァンが私に何も言わなくったって、傍にいてくれるだけで私の心は不思議と和らいだ。
「……いつも気にかけてくれてありがとうね、エヴァン」
素直にお礼を言ったら、エヴァンはふっと頬を緩めて頭を強めに撫でた。
最近、エヴァンはこうして私の頭に触れることが増えた。
きっかけは、初めての領地視察の帰り道に、乱れてしまっていたらしい髪を直してくれたことだろうか。
学生時代を含めて、これまでエヴァンに頭を撫でられることなんてなかったから、なんだかとても気恥ずかしい。
でも同時に、彼のわずかにささくれがある大きな掌が触れるたびに、温かい気持ちにもなる。
だから代わりに私も彼を撫でてあげようと腕を伸ばすんだけど、それはなぜかさせてもらえない。
今日もそうだ。
私が腕を伸ばしかけたのを敏感に察知したエヴァンは、手を離すと、すいっと離れてしまう。
「なんであなたはいつも逃げるのよ」
「当たり前だろう。頭撫でられるとか、小さな子供じゃあるまいし」
「それを私にしているのはどこの誰かしら? 私だって立派に成人しているんだけど」
「ルナを俺が撫でるのは別にいいんだよ」
「どういう理屈よ」
エヴァンと私のやり取りはいつもこんな感じで、学生時代から変わらない。
彼といると私は肩肘を張らずに自然でいられる。
多分変わらない彼がいてくれているから、新しい場所に慣れるのも早いんだと思う。
そんな彼に私は感謝の気持ちを示したいんだけど……。
結局、私はその日もセレナの表情を真似て彼女の代替えになることしか、彼を喜ばせる方法が思いつかなかった。
……ただ、最近気になることはあった。
私がセレナのように微笑むと、エヴァンの顔がわずかに強張るのだ。
今日だって彼の表情が曇って口元が引きつっていたから、多分気のせいじゃない。
でも私がそれを指摘したら、
「……ルナって何の前触れもなくセレナの顔になるから、驚いてるだけだよ」
とエヴァンからは返ってきた。
言われてみれば、私だって急にエヴァンがカイエル殿下の顔をしたら、同じように驚く気がするなと、そう納得した。




