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偽装結婚の私たちは、互いに誰かを演じ合う―代役夫婦が本物になるまで―  作者: 春樹凜


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10/31

10.初めての夜



 食事の後、湯浴みを済ませ、アンネに付き添われて部屋へ戻った。


 簡単に身支度を整えてから灯りを落とすと、部屋の中はすぐに静けさに包まれる。

 旅の疲れもあったはずなのに、横になってもすぐには眠れなかった。

 むしろ新しいことだらけだったからか体が興奮しているようで、妙に頭も冴えている。


 目を閉じてもとても眠れそうにない。

 仕方がないので私は天井を見つめながら、今日一日のことを思い返す。


 初めてのライネオス邸。

 初めて接した屋敷の使用人たち。

 初めての四人で囲む食卓。 

 この場所で暮らすという実感が、少しずつ湧いてくる。

 

 けれど胸の奥には、楽しみだという期待とは別に、もやもやとした固まりもまだ残っていた。


 私は王都の出身で、ライネオス領はそことは全く別の場所だ。

 環境が変わってしまったことに対する、そして、これからうまくやっていけるかという不安は、すぐに全て拭い去れるものじゃない。

 思わず小さな息がこぼれる。


 と、しばらくして、隣の部屋から微かな物音が聞こえた。

 

 椅子が引かれる音に、衣擦れや、歩く気配。

 しんと静まりかえった室内だからか、驚くほどはっきりと生活音が漏れ出てくる。


 それを出しているのが誰なのか、考えるまでもなく分かる。

 

 扉は開かないし、声もかからない。

 けれど、確かにそこにいる。

 

 彼の部屋が隣だと知った時にはあんなに動揺したのに。

 今の私はそれとは正反対で、彼の存在があることで気持ちが少しずつ落ち着いていくのを感じた。

 

 これからは、こういう夜が続くんだろう。

 同じ屋敷で、隣の部屋で、それぞれの時間を過ごしながら眠る。

 まだ夫婦ではないけれど、それでも、もう他人でもない。


 ふと、隣の気配が遠ざかる。

 きっと、エヴァンも休むんだろう。

 

 私はゆっくりと目を閉じた。


 恋とか、きっとそういうものじゃない。

 エヴァンが、遠くにいるあの人に似ているからでもない。

 エヴァン自身の存在を感じながら眠れることに、私は理由のない安堵を覚えていた。


「おやすみなさい、エヴァン」

 

 小声で呟いた言葉には当然何も返ってこないけど、私の耳には、彼がそれに答える幻聴が聞こえた。

 

 そして、気づけば、私の意識は静かに沈んでいった。

 隣にエヴァンがいるという事実を、心地よいものとして受け入れたまま。



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