第6話:水しぶきの向こう側、彼女がいてくれて良かった
「子どもの動線、赤いコーン一本分広げてもらえる?」
朝のミーティングで私は指差し、確認する。
ベビーカーのUターン半径、売店の列の圧縮、フォトスポットの光の角度と抜け道——
ここは地方の老舗水族館。今日のプロモ撮影の主役は、イルカと、イルカを見上げる観覧客の笑顔だ。
屋号は”Respect for the Future”。
あの夜、裸足で石段を駆け上がってから、私たちはずっと走ってきた。
あの時、二人で描いたホワイトボードの矢印は、今も胸の内側で交わっている。
「表示、差し替え完了。撮影に合流するね。」
「OK、こちら機材チェック中。」
イルカショーのプールに到着すると、いつも通りの和子の姿がそこにあった。
私の「来客者はもっと自由に動きたいと欲しているのでは」という仮定を基に、サイン表示の見直しが行われた。
最初は既にある表示の位置を変えたり、表現を工夫したりと色々試したが、中々納得のいく結果にならない。
そんな時、和子がそもそもの“注意表示の必要性”を再定義したらどうかと提案してくれたのだ。
来客の自由度を上げつつ、生体保全の確実度を増す方法。それを水族館のスタッフと丁寧に検証した。
効果はすぐに現れ、来館者の満足度が急上昇した。
今ではまるで海の中を探検しているようだと口コミが広がり、注目スポットになりつつある。
自分の得意分野だと思っていた空間デザインの可能性が、和子のおかげで幅が広がった。仕事の成果に浮足立つ日々は、何とも心地よかった。
開演十五分前。
観客席は満席。
ポップコーンの甘い匂いが水の匂いと混ざる。
私はカメラの液晶を覗き、テストで観客の笑顔を拾う。
——と、フレームの端に“見覚えのある顔”が切り込んできた。
背中を曲げた長身の男。
頬の肉が下へ落ち、あごのラインが消えている。
背中のシャツはシワのまま。革靴にはヒビが入り、ベルトの留め金はメッキが剥げている。
ギャルっぽい妻は反対に手がかけられていて、カラコンに濃いまつ毛、ネイルは左右別色のグラデーション。
5歳くらいの長男は無表情でかき氷をほおばり、赤ん坊は日傘に埋もれている。
男は周囲を押し分け、最前列の隙間へ突っ込んできた。係員が注意しきれない速さ。
私は反射的にズームを引いて、胸の鼓動を押さえた。
——新堂 斗真
今は彼に気を取られてる場合じゃない。
私は息を整え、レンズをスイッチングする。
過去は、フレームの外へ置いてきたハズだ。
司会の声が跳ね、音楽が上がる。
ピッという笛の音を合図に、訓練された海獣は悠々と水槽を回遊し、ふいにジャンプした。
銀色の背中が水面をたたき、巨大な尾がひと振り——
バシャァァン
狙ったかのように、最前列の彼らへ水のカーテンが落ちた。
長男が顔面から水を受け、かき氷は消滅。あっという間に泣き出す。
赤ん坊は水に溺れたようになり、妻は日傘で防ごうとして失敗。
彼は海水に浸かったシャツに舌打ちした。
家族は慌てて通路へ退避し、観客の波が少しだけ乱れた。
私はクロスでレンズの水滴を拭う。液晶の四隅が滲んだが、気にするほどでは無い。
「フォーカス戻して。」
和子の声。私は頷き、彼女の手元にカメラを預ける。
***
凛がレンズを素早く拭った後、私はフォーカスリングを回してピントを戻す。
防水加工がされているが、塩水はなるべく浴びたくない。
私はモニターの隅に残る水の粒を確認しながら、心のどこかが静かに波打つのを感じていた。
さっき最前列に割り込んだ男は、昔の友人で、かつて間違って尊敬した人だ。
けれど今、私が目指すのは、偽りの言葉ではなく未来へのアクションだ。
何度も重ねた水族館スタッフとの打ち合わせで、課題はたくさんあるけれど、先ずはこの施設が抱く歴史と新しいビジョンに集中しようと決めていた。
イルカの尾が再び水面を叩く。
私は観客席の中央——少年が肩をすくめて笑う瞬間——にピントを合わせた。彼の隣で、祖父らしき男性が笑い皺を深くする。
こういう表情を、私は守りたい。
画角を戻したとき、通路の先で先ほどの家族が退避していくのが一瞬だけ見えた。
男は頭を抱えるように歩き、妻は苛立ちを隠さず、長男は泣きながら容器だけのかき氷を握っている。赤ん坊は、泣き疲れて唇が青くなってる。
私は目を離した。
——ここは、彼らを映す場所ではない。
「OK、戻しといたよ。」私は凛にカメラを返す。
「ありがと。……見た?」
「見た。でも、今撮るのはこっち。」
***
イルカは弓のように体を器用に半回転させ、狙ったブロックにだけ豪快なシャワーを降らせる。
私は叫び声のような歓声を拾い、太陽に光る飛沫のアーチを添える。
背後で和子がサブ機を回し、グラフィック班へ送るカットリストを更新する。
——働くことが、こんなに楽しいとは思わなかった。
「ねえ」私はカメラから目を離さず、囁く。
「あいつ、父親してたね。」
和子が、わずかに息を呑んで笑った気配がする。
「うん。……でもさ、もし結婚してたのが自分だったらって考えると…」
私は顔を上げ、和子を見る。目が合う。
二人、同時に口を開いた。
「ないわーぁ」
堪えきれず吹き出す。
カメラの後ろで、肩が震える。
過去の痛みは、もう“笑い”に変換できる形までデータ化されていた。
***
笑いながら、私は昔の自分を少しだけ思う。
今は違う。凛と並ぶここは、自分で育ててきた場所だ。
レンズの端に残った水滴が、光を丸く曲げる。私はその玉ボケを見つめながら、心の中でつぶやく。
——彼女がいてくれて良かった。
——もし一人であの景色を見ていたら、きっと笑えなかっただろう。
ショーはクライマックスへ向かい、司会の声が弾む。
ラストにイルカが割ったくす玉から“本日限りのQRコード”が現れて、私はOKのサインを送る。
コードはSNS誘導用だが、フォローすれば今日のイルカショーの画像が手に入る。
ショーに夢中になって写真が撮れない、写真に夢中になって本物が全く見られなかったという声に応えて、今月から始めた仕掛けだった。
「ありがとう、真鍋さん!」若い飼育員が頭を下げ、駆けてくる。
「すごい!お客さん皆スマホ構えてます!ツイートも沢山!」
“ありがとう”は、何度聞いても飽きない言葉だ。
私が守りたいのは、この働く人の背中と、未来への笑い声。
その瞬間、私ははっきりと分かった。
この物語は特別だ。
私の、そしてこれからも続く、私たち皆の物語だ。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




