第4話:心の中、太いマジックで線を引く
「女は一緒に買い物に行きたいとか、食事しようとか言ってくるけどさ、面倒なんだよ。
正直、一緒にいるなら男友達とか真鍋と話してた方が楽。」
昼過ぎの会議室。次のミーティングまでの隙間時間、プロジェクタの冷却ファンが低くうなり続ける中で、新堂斗真は当然のように言った。
私は笑顔の形だけを作り、返事を飲み込む。
前は分からなかった。今は分かりかけている。
彼と交わす雑談は、刃物の切れ味を試す手つきに似ている。
私の心の表面を刃でなぞって、どこまで力を入れたら血が出るか、確かめるみたいに。
「本命の彼女、いるよね?」
初めて、こちらから問いを立てた。声は驚くほど穏やかだった。
「いるよ。凛は総合評価で一番。」
彼は悪びれず、笑って言う。
「頭もいいし、可愛いし、出しゃばらないところも“合格”。実家もそれなりだし。
比留間は…ほら、話は続かないけど、体は最高。分かるだろ?」
分からない、と言いかけて、私は口を閉じた。
その代わりに、質問を一つずつ重ねる。
刃をこちらに向けさせないために、彼自身に刃の存在を見せるために。
「避妊は?ちゃんとしてる?」
「凛との時は付けてるよ。そりゃ大事にするでしょ?本命だから。」
少しほっとした。そこまで馬鹿じゃ無かったか。
「でもセフレとはそのまま。そっちの方が気持ちいいし。」
はぁ?と顔を見る。
得意げな斗真の表情が意味不明だ。
「リスクあるんじゃない? 性病とか、子供できたらどうするの?」
「ん?……まあ、そういう話はした。
相手も納得してるし、薬ぐらい自分で飲むでしょ。」
ああ、これは“話した”という既成事実の石を、彼女の手に持たせただけだ。
実質的な選択の余地は——恋した側には、無かったのかもしれない。
私はペン先を軽く叩いて、次の問いを浮かべる。
「そろそろ身を固めろとか、上司に言われてるんじゃないの?」
「そうなんだよな。セクハラ教育もう一度受けといて欲しいよ。」
「なら、総合評価一番の和泉さんで満足しときなさいよ。」
「えー」と斗真が残念そうな演技で肩をすくめる。
「こういうのは、よくある話だって。」
「第一、その総合評価の基準て何なの?」
「俺」
「じゃあ、あなた次第じゃないの。ほら、決断、一番を選んで他はリリース!」
「そうきたか」
「その表、彼女たちに見られる?」
「見せないよう。だって、女の子は俺のコレクションだし。」
——見えないところで順位が付けられ、見えないところで点が上下する。
選ばれた彼女たちは、人間ではなく斗真の所有物の一部になるのか。
私は静かに目線を落とした。
ため息に合わせて、胸の中で古い杭が一本抜ける。
私は長いこと“物わかりの良い友人”であることに、自尊の一部を置いていた。聞き役に徹することで、少しだけ特等席に座らせてもらえる、と。
けれど、その席の舞台は砂場だった。
私の心は砂場にされ、斗真の好き勝手に言葉遊びをして、崩される。
どんなに壊してもまた踏み固めればいいと、彼は信じて疑わない。私がどう想おうとかまわないのだ。
コーヒーでも淹れようと会議室を出ると、比留間エリが向こうから歩いてきた。
爪先には凝ったネイル。髪の先まで整えられ、艶が輪を描いていた。
短いワンピースの裾からのぞく脚は痛いほど白く、うっすらと日焼け跡が残っていた。
和泉凛とはまた違った魅力の女の子。彼に選ばれた子。
彼女はスマホを耳に当て、小さな声で語り掛けていた。
「うん、来月帰るよ……うん、そっち寒い?ダウンもう出した?」
この間の飲み会とは違う、少し訛りのあるイントネーション。笑い方に、家族へ甘えるときだけの幼い音が混ざる。
私は目を逸らせなかった。
彼女にも生活がある。ネイルを変える夜があり、サンダルで歩いた休日があり、両親に「帰る」と無邪気に約束する娘の時間がある。
“オールA”と呼ばれる時間は、その生活にどう差し込まれているのだろう。
歩き去る比留間エリの後姿を見ながら、私は胸の痛みを感じていた。
彼女の“これから”の時間まで、軽く扱っていいわけがない。
夜、私はメッセージを打った。宛先は和泉凛。
《真鍋和子: 斗真のこと、信じ過ぎないで》
送信ボタンを押す指が、震えなかったことに驚く。
返ってきた既読の表示。少しして、短い返信。
《和泉凛: メッセージありがとう》
正直——痛い女からの、無様なメッセージだと思ったに違いない。
眠る前、机に向かって、白紙の紙を一枚出す。
——境界宣言書。
便箋の上にそうタイトルを書いて、箇条書きを置いた。
・勤務時間外の私生活に関する下世話な話題は、私の耳に入れないこと
・法務担当としての確認依頼は、文書でのみ受けること
・新規プロジェクト「欧州菌床開発事業」からは降りること(理由:職務倫理違反、内部統制上の違反あり)
・以後、個人的に口裏合わせを求めないこと
最後に、署名と日付。ペンのインクが紙の繊維に吸い込まれていくのを見届ける。
クリアファイルに入れた瞬間、透明のシート越しに、紙の輪郭が一段とくっきりした。
——契約は、双方の同意あって効力を持つ。
翌朝。社内の空気は冷たく、プリンタの匂いがする。私は斗真のデスクの前に立った。
「時間、いい?」
「お、真鍋。昨日のさ——」
彼が話し出す前に、私はクリアファイルを差し出した。
「私、新規プロジェクトから降ります。
詳細は書面に。
以後、勤務外のプライベートな話題も結構ですので。」
彼の顔に、見慣れない表情が浮かんだ。ぽかん、と口が開き、すぐに笑いに変わる。
「マジか。久しぶりに出た真鍋の悪い癖だな。
……あ、でもさ、それとは別に聞けよ」
不意に、彼は椅子の背にもたれて、得意の笑みを作った。
「俺、今度結婚するんだ。結婚式に招待するからご祝儀よろしくな。」
私は一瞬、自分の心音が遠くなるのを聞いた。
——最後まで、話を聞かない人だ。
胸の奥で、砂場に立てられた旗が、ばらばらと崩れる音がした。
和泉凛と、ついに結婚……か。
私はファイルを彼のデスクの上に置いた。彼の笑顔の向こうが、透けて見えるようだった。
席に戻る途中、窓の外に秋の光が差し込んだ。
スマホが震える。
《和泉凛: 明日の昼に話せる? 新しいアイデア聞いて欲しくて》
私は小さく笑って、返信した。
《真鍋和子: もちろん》
その時、彼女にお祝いの言葉を伝えなくてはと気付いた。
でも、できなかった。
明日、会った時に直接言おう。
斗真はクズだが、彼女には幸せになって欲しい。
……そう思っているのに、いつも通りの自分でいられる自信が無かった。
午後、また廊下で比留間エリとすれ違った。
彼女は小さな紙袋を抱えてウロウロとしている。北海道の有名なバターサンドだ。
「いいですね、それ。」
思わず声をかけると、彼女ははにかんだ。
「うん。両親から大量に送られて来ちゃって
……あ、でも、どうしよう。冷蔵庫入れなきゃだめかな。」
私は答える。
「品質表示見て、要冷蔵。今日は涼しいけど、職場なら冷蔵庫に入れておいたら。
その量だとフロアの冷蔵庫だとクレーム来ちゃうから、食堂横の共有スペースの方が良いよ。」
彼女は「あ、そっか」と笑った。「真鍋さん頼りになる!」
明るいその笑顔は、誰かのランキング表に載るためのものではなかった。
人は、誰かの表の中だけで生きているわけじゃない。私も、彼女も。
いつもの、自席に着いて深呼吸を一つ。
心の中、太いマジックで線を引く。
刃物の切れ味を試す遊びは、もう終わりだ。




