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第3話:私達、同じ檻に閉じ込められてるみたいね

 昼の社内カフェは、コーヒーの匂いと誰かの愚痴でいつも少しだけ湿っている。

 私——和泉凛——は、午前中は営業会議資料の集計に追われ、ひと息つく間も無かった。

 最近、アシスタント職の枠を超えた業務が増えている気がする。

 仕事が増えた分、評価が上がるかというとそうでも無く、ただ積み重なる仕事をどうこなすかが問題だった。

 列に並び、ミルク多めのラテを頼もうとして、前の女性が小さく「あ」と声を上げて屈んだ。

 飾り気のない手が床から拾い上げたのは、私の手帳だった。ポケットから滑り落ちたらしい。


「すみません、それ……」

「和泉さんの、ですよね」


 見上げた先にいたのは、真鍋和子。法務の、あの落ち着いた目の人。

 彼女は表紙を確かめてから、そっと手帳を返してくれた。その指先の扱いが、紙の重さを知っている人のそれで、私は一瞬で好感を抱いた。


「ありがとうございます。散らかってる字で、恥ずかしい。」

「散らかってません。むしろ……すごい発想力。」


 真鍋さんは、表紙からはみ出た付箋のひとつを指で押さえた。

 そこには、近隣ランチ事情と社員食堂の比較が手書きでびっしり。

 並び順、客層、昼のピーク時間、混雑解消のための電子決済の効果比較、

 そして「毎日に新しい発見=午後の集中力」を中心にしたコンセプトマップ。

 私は笑って肩をすくめる。


「気になることを突き詰めちゃうタイプなんです、私。

 誰が何を欲しいのか、鼻が動くと止まらないというか。」

「鼻、ですか。」

「はい。もちろん、数字の裏付けは必要だけど、最初は匂いなんです。」


 そういえば、先日送ったメッセージに≪ありがとう≫と短く返してくれた。

 知らない人ではないけれど、後で読み返したら少し恥ずかしい内容だった。

 彼女の目の焦点が、少しだけ近づく。

 お互い、カップを受け取って席を探す。偶然空いた二人席。

 座ると、私は手帳を開いた。

 今日の午前中、頭の中で回し続けていた新規事業の断片

 ——菌床きのこ、欧州のウェルビーイング、食卓の光——を、言葉にして並べてみる。


「私は逆です。」

 ふいに手帳をのぞき込んで真鍋さんが言う。

「地雷を先に挙げさせてもらってます。法規、判例、ガイドライン。

 どれを踏むとアウトかを先に並べて、そこから通れる道を引いていく。」

「わ……それ、いい。

 私、よく爆発させてから気付くから、足元を固めてくれる人がいると、すごく安心。」


 笑い合う。

 私の言葉と彼女の言葉は、質感が違うのに、隣り合ったとたん噛み合う音がした。


「ねえ、せっかくだから、ミーティングエリア使いませんか。」

「行きましょう!」


 会社がイメージアップのため用意した“気軽に立ったまま打ち合わせできる場所”には、大きなキノコのような机が立ち並ぶ。実際は立ったまま会議するのは疲れるので、あまり使わない。

 ホワイトボードを引っ張ってきて、私が「ヒト・モノの流れ」の矢印を描く。

 真鍋さんは横に「ヒト・カネの地雷」の赤い×を並べる。

 矢印は柔らかく、×はくっきり。二色の線が、ボードの真ん中で交わる。


「ヨーロッパがねらい目だと思うの。」私は言う。

「椎茸は食材として定着してるし、ポルチーニ茸とかキノコ食文化が元々あった地域でしょ。

 料理家とタイアップして新しいレシピと共に売り込めば、天然ものより安いキノコに魅力を感じて、消費量も増えるんじゃないかって。」

「いいね。農薬・残留基準、輸入規制、知財要件。

 ここを先回りで潰せば、自社の権利も守られる。」

「知財?きのこ作りが?」

「もちろん。

 法律は、みんなの努力を守るためにあるの。私はそう思ってる。

 事業を成功させるだけじゃ、数年で真似られて終わり。

 無防備に奪われる前の防衛策が必要なの。」


 会話が進むたび、私の想定を超えた精度で、世界が広がる。

 視界のピントが勝手に合っていく感じ。


 ふと、私の胸の内側に引っかかっていた何かがカサリと動いた。

 さっきまで、これは斗真に話そうと思っていたのに——

 斗真に話しても、また馬鹿にされるんじゃないかと、そればかりを気にしていたのに——

 彼女と話しているほうがしっくりくる。


「……変なこと、聞いていいですか」

「どうぞ」

「斗真が、全体会議で出してた新規事業案、あれ、どこから?」


 真鍋さんのまつげが、わずかに震えた。

「“社内ナレッジから見出した”って言ってましたね。」他人事のように言う。

「うん。でも、あのアイデア、どこかで見たような——」


 言いかけて、私は口を噤む。言っていいのか、分からなかった。彼と彼女の間に、どんな会話があったのか、私は知らない。

 沈黙が数秒漂った。


「私の資料をベースにしたそうです。」真鍋さんが静かに言った。

「菌床の設備適合性は私の観点。

 でも“欧州の高級路線”は、私にはなかった。」

「じゃあ、あれは、私とあなたの……合作だったんですね。」

「……今じゃ斗真が、進めてるけどね。」


 ボードの上、赤い×と黒い矢印が交差している。その交点に立つ斗真の足元に、彼が無視する地雷が埋まっているように見えた。



 ***

 私——真鍋和子——は、ブラックコーヒーを片手にここが職場であることを忘れそうになっていた。

 和泉凛の嗅覚は本物だった。

 彼女がホワイトボードに描く矢印は、論文にならないような仮説なのに、現実の人の意識や動きにぴたりと重なる。

 私は一歩下がってその流れに×を置く。せき止めるためではなく、流れが溢れないように、漏れ出さないように。

 彼女と私が見る世界は、対立せず並行して一つの目的地を目指していた。


 会話を重ねるほど、胸の奥で何かが溶けていく音がした。

 硬い岩塩が、湯の中で崩れていくみたいに。


 ——私は、この人を好きだ。

 恋敵としてではなく、人として。


 だからこそ、言えないことが増える。

 斗真の浮気の話。あの夜の、口裏合わせ。ランク付けの話。

 伝えれば、彼女を傷つける可能性がある。

 真実は、ときどき地雷になる。


「和泉さんが言う”匂い”は、時々、嘘をつくと思いませんか。」


 私は自分の本心を悟られないよう、言った。


「つきます。だから、修正してくれる仲間がいるんです。」

「……仲間も、嘘をつくと思いませんか。地雷を仕掛けてるかもしれませんよ。」

「そう考えるのは、嫌いです。」


 和泉さんは、少しだけ唇を尖らせて言った。

 子どもっぽい仕草なのに、愛想ではない、素の反応。私は無意識に笑っていた。


 彼女は斗真との交際が順調そうに見える。社内で交わす視線、完璧な笑顔。美男美女という絵の強さ。

 “恋敵”というラベルは、私の中で何度も貼られては剥がれ、そのたびに粘着の跡だけが残った。

 でも今、目の前で語る彼女を見ていると、勝手にラベル付けした自分の愚かさの方が痛々しかった。


 それでも——言えない。斗真の裏切りのことを。

 彼女が、その“見えない地雷”を踏まないように、祈るしかないのか。

 黙っていること自体が、彼女を孤独にするかもしれないのに。


 私は、ペン先をカチリと引っ込めた。

 言わないことと、守ることは、イコールではない。法務担当として、私はそれを知っている。

 知っているなら、選ばなければ。



 ***

「言っていい?」

 真鍋さんの声が、紙の上に静かに落ちた。私は顔を上げる。

 彼女は息を整え、私を見る。揺れない焦点。ドラマで見た法廷の場みたいだ。


「あなたの努力、彼に——搾取されてる。」


 心臓が二拍、遅れる。

 私は笑ってごまかすつもりだった。

 「まあ、カップルって共有多いし」とか、「彼も努力家だから」とか。

 用意していた言い訳が、喉の奥でほどけて落ちた。

 代わりに、私の口から出たのは、思ってもみなかった言葉だった。


「それは、あなたもそうでしょう。

 ……そもそも、あのプレゼンの“土台”は、あなたの案じゃないの?」


 真鍋さんの目が、わずかに見開かれ、すぐに笑った。痛みを認めた人の笑い方。

 私の頬が熱い。

 ふと、気づく。私の顔から、いつもの張り付いた笑みが消えていた。

 営業用に角度を決め、目尻を柔らかく保つ“地顔”。それが、今はない。

 私は、私の顔でしゃべっている。仕事の場なのに、素でいた。

 見ると、彼女も少しだけ不思議そうに、私を見ていた。


「……言って、よかったのかな。」

「ありがとう。言ってくれて。」


 声が震える。

 私たちは、ボードの前に並んで立った。赤い×と黒い矢印。交点の上に、小さく丸をつける。


「ここ、名前、書きます?」凛が指さして言った。

「書きましょう。会社の名前でも、私達のでも何でも。」

「そうだなぁ……ユニット名みたいのがいいかな。」

「こういうのは貴女の領域だから。期待してます。売れるやつ考えてください。」


 私たちは笑った。笑いは、鍵を持っていた。

 真鍋さんが、ぽつりと言った。


「私達、同じ檻に閉じ込められてるみたいね。」


 うん、と頷いた瞬間、ふと風景が浮かんだ。

 赤と黒の交点に置かれた小さな丸。まだ無いその名を書く、私たちの手。

 その名前には、檻から抜け出す鍵があった。


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