第1話:私の何を、どこにランキングしてるの?(和泉凛)
この仕事を始めてから、ひとつ気づいたことがある。
人は誰しも、自分の半生を文章にしたら「すごい小説が書ける」と信じている。
例え声に出さなくとも、心のどこかで、そう思っている。
そんな大それた人生ばかりじゃない?
ええ、確かにそうかもしれない。
でも——私も、ご多分に漏れず同じように考えている。
私の、そして私たちのこの物語は、特別だ。
***
議事録の手直しを始めてから、人の温度に敏感になった。
AIが取りこぼす「場の気配」を拾うのが、私はたぶん少し得意だ。
語尾の硬さ、笑いの間、一瞬の沈黙の意味。音声から文字になった「記録」が取りこぼしたもの。
それに私が手を加えると、誰もが自然に場の空気を読めるようになる。
高層マンションの三十五何階、彼が所有するこの部屋からは、作り物のような夜景が複層ガラスの向こうで瞬く。
キッチンカウンターの上にラップトップPC、横には白湯を入れたマグカップ。
素足にフローリングの冷たさを確かめながら、私はやたら句読点の多いテキストを修正していく。
——今日の斗真、やっぱり格好良かった。
すっきり伸びた背筋。まっすぐな長い脚。床に反射して艶めく革靴。嫉妬されない程度に攻めている仕立ての良いスーツ。
口角はいつもほんの少しだけ上がっていて、批判も否定も、彼の口から出ると柔らかな音色に聞こえる。
プレゼンの最後、薄く笑って一礼した瞬間、会議室の視線が彼に集中したのが分かった。あれは武器だ。彼の立ち居振る舞いは、敵も味方につける。
それでも——AIの自動文字起こしは賢いけれど、社内用語やニュアンスの細部はまだ人の目が要る。私にできることはやってあげたい。
事務アシスタントとして採用されてから、企画職の彼を遠く感じることはあったけれど、そんなものは考えない。役に立てる場所で、私は丁寧に納得した仕事がしたい。
けれど、議事録の中で一箇所だけ表記が揺れた。私の知らない専門用語なのか、単なる発言者の間違いなのか……判断に迷って斗真にメッセージを送る。
既読はつくのに、応答はない。残業中だろうか。
会社の暗黙のルールで、会議の議事録は当日中に配信する決まりだ。
もう一度送って、今度は電話を鳴らす。
「……もしもし、斗真?あの、さっきメッセージした議事録の件なんだけど——」
受話口の向こうからはテレビの音声と拍手。こんな時間まで、居酒屋でクライアントと打ち合わせ中なのだろうか。彼の声はいつもより少し高い。
「凛?ごめん今、取り込んでてさ。」
「なら…私判断でいい?」
そのとき、彼が全力疾走した後のような、ため息をついているのに気付いた。
「やっぱり君が一番だよ。助かる。」
通話は、軽く切れた。
——変なの。
ガラスの表面みたいに滑らかだけど、温度がなかった。
スツールの上で、膝を抱える。なぜだか、ひどく孤独だった。
気を取り直して、社内ナレッジにアクセスする。
過去の電子データが蓄積してあり、ボツになった提案から話題のプロジェクトまで、社員の共有財産としての知識データベースだ。
今日会議の端で話題に出た、新規事業案が気になっていた。過去に類似提案はないか、検索ワードをいくつか重ね、AIのおすすめを手で修正する。
結果リストの三番目で指が止まった。
——真鍋 和子
見覚えのある署名。大学時代からの彼の友人で、同期。法務担当。
一度、食事会で同席したことがある。地味——初対面の印象は、そう“モノクロの人“だった。派手さはないけれど、目の焦点が揺れない人。
「アイツ、仕事しか見えない仕事バカだからさ」
斗真は笑っていた。
「俺は女の子と同じ部屋に泊まっても、友情は守るってタイプ。
実際、真鍋とも何もなかったし。そういう線引きちゃんと出来る男なんだよ。」
彼の論説と、隣でうなずく真鍋さんに安心して、終電を逃し彼の部屋へ行くことになった。
けれどその夜、二人きりになった瞬間に私は押し倒されて、嘘と真実なのか境界線が曖昧になった。
——真鍋さんの提案書?
開いたPDFには、丁寧な注釈と判例の引用が並ぶ。調査対象の業界団体、行政のガイドライン、海外動向、競合の参入障壁。
論理展開の美しさに惹かれる。言葉の間に余計な熱がないのに、結論がすんなり前に出る。
「EV化にともなう部品点数の減少で稼働率が落ちる粉末冶金工場を活用した、菌床きのこの生産・販売モデル」
——読みながら、私は思わずにやりとした。
きのこ?食品?BtoBの工場からBtoCへ?無謀?
いや、工場内のクリーンルーム、温湿度管理設備、品質管理基準。菌床の育成は設備適合性が高い。
既存の人員配置の再教育コスト、商品化までの研究開発費用がかかっても…いける、と思う自分がいる。
次いで、頭の中の「嗅覚」がスンと反応して映像が見える。
欧州のサステナブル文脈、市場規模、パッケージデザインの方向性。
ジャポニズムブランド…高級路線で行ける。高利益率を狙える。
テクスチャ、香り、著名料理家のタイアップ。
——私の目線と、真鍋さんの頭脳。合わされば、無敵だろうな。
まだ会っていないのに、私は勝手にチームを夢想していた。
画面から顔を上げる。
瞳にさっき見たシナリオの余韻が残り、頬がふわりと浮いた。気がつくと、胸のモヤは薄くなっていた。
翌朝、結局戻らなかった彼へメッセージして部屋を出た。
ずっと帰りを待っていた事を伝えても、既読が付いただけだった。スタンプも押せない状況なのだろうか。
私は彼の忙しさを理解している。理解しているけれど、慣れたくはない。
昼休み、社内カフェで彼を見つけ、浮き立つ心を隠せなかった。
子犬のように駆け寄って、コーヒーを待つ彼の横に並ぶ。
「昨日の案件、この真鍋さんの資料、面白かったよ。
私だったら欧州を先に攻めるな。高級路線で“ウェルビーイングを食べる”みたいな。
——ほら、これ、簡単にだけど市場性の根拠をメモった。」
タブレットに用意しておいた簡易スライドを見せる。
数値の裏に、商売として成り立つ風景がうっすら見えるようにストーリーを組むのが、私の得意な構成だ。
斗真は、斜めから覗き込む。
「うん、凛はそういうの得意だよね。センス?……でもまあ、今回のは別の方向で行くから」
「別の?」
「うん。細かいことはまだ明かせないけど。——もしかして、参加できるとか思ってた?」
笑われた。
私は黙ってうつむき、飲みかけのラテに口をつける。もう、ぬるい。
「それより、今日は早く帰れそうだから。ゆっくりしよう。」
胸のどこかが、小さく鳴った。
仕事の話になると、彼の視線は私の上を通り過ぎる。その代わり、プライベートな話題になると途端に言葉が熱を帯びる。
オンとオフを切り替えているだけなのかもしれない。でも、何か別の意図も感じる。
——「やっぱり君が一番だよ。助かる。」
耳元で囁かれた昨夜の言葉が、遅れて脳に届いた。
“やっぱり”って、何?私の何を、どこにランキングしてるの?
人は、触れられて安心することもあれば、触れられて孤独になることもある。今夜の私は、どっちだろう。
週明けの午後、大会議室。私は端の席に座り、社用PCを開いた。今日は役員も出席する大事なプレゼンの舞台。
壇上に斗真が立つ。ライトが彼の側頭部で跳ねて、スクリーンに影を落とした。
「それでは、新規事業案のご提案です。
減損評価対象となっている資産を活用すべく、社内ナレッジから見出したデータを再編成しました。」
——社内ナレッジ。
耳慣れた単語に、背中の筋肉が硬くなる。スライドのタイトルがめくられる。
「遊休中となっている粉末冶金工場の設備を活用した、菌床きのこ生産・販売モデル。まず、国内外の規制環境と参入障壁についてですが……」
画面に現れた箇条書きの骨組みは、先日のPDFにあった真鍋和子の提案書の筋書きと酷似していた。注釈の出典記号までそのままだ。
そして三枚先のスライド——
「欧州市場におけるウェルビーイング消費の潮流と、プレミアム路線での訴求可能性」
そこに並んだ言葉の順番は、私がタブレットで示したメモの内容そのままだった。
喉が温かくなって、すぐ冷える。
これが怒り?悲しみ?私は無意識に手の甲をつねった。
痛みが、感情が爆発するのを抑えてくれた。
壁一面の鏡面ガラスに、彼と私の姿が重なる。
役に入り切った表情の彼。斗真が、ふとこちらに気づいて小さく手を振った。
反射的に、私は営業スマイルを返した。事務的に口角が上がり、目尻が柔らかくなる。
私は表情が檻になるのを感じた。
武器だった笑顔が、鉄格子になる。外から見れば穏やかでも、ここから抜け出す鍵がない。
プレゼンが終わり、拍手。上司が満足そうに頷く。
社外の重役は「さすが」と言った。部下は「リーダーの彼女さん可愛い。」と私の方を見てささやく。
斗真が席に戻る途中、私の肩に軽く触れた。
「ありがと!」
「……うん。おつかれさま。」
私は議事録のカーソルを点滅させる。
“真の発案者はわたし”
入力して、消す。こんな皮肉は必要ない、必要なのは事実だけ。
“質疑応答なし。提案は採択された。PJ起案書は添付を参照のこと。”
夜、彼の誘いを断り、わざと残業してから帰宅した。
エレベーターホールの鏡に映る自分の姿を、まじまじと見る。
大学時代、カタログモデルの撮影で覚えた笑い方、顔の角度、腰の位置、肩の落とし方。
私は、私をよく訓練した。だから今でも、自分をよく閉じ込められている。
ドアを開けると、鞄の奥でスマホが震えた。斗真から。
——返すのは、明日にしよう。
何をする気力もなく、ソファに身を沈め目を閉じる。
まぶたの奥に今日のスライドとナレッジで見たPDFが交互に流れ、短い名前が浮かんだ。
——真鍋 和子
本日の会議の参加者欄に、確かに名前があった。彼女はどんな気持ちであのプレゼンを聞いたのだろう。
会って話をしてみたい。彼女の頭の中を、少しだけ覗いてみたい。
もし——もし、私と彼女が同じテーブルの上に並んだなら。
ふいに、全身の疲労が一挙に抜けた。
想像は、勇気を連れて来る。
私は静かに笑って、部屋の電気を点け、持ち帰ったPCを立ち上げた。
“表題の件、調査資料を拝見しました。
ご提案内容に興味があり、一度意見交換のお時間頂戴できますでしょうか。”
……いや、これじゃだめだ。丁寧に、だけど自分の言葉で書き始めたい。
私は両膝を抱いて、額をのせる。
耳の奥に、斗真の柔らかい声が響く。「君が一番だよ」。
私は小さく首を振った。
——私が一番である場所は、私が選ぶ。
——"はじめまして、真鍋さん。あなたの理屈、私、好きです。”
震える指先で、送信ボタンを押した。
お読みいただき、ありがとうございます。
続きものです。




