懇願
飛行船は見る間に高度を上げ、雲の中へ消えていった。
人間のために生きる、と彼女は言った。本当にそれは彼女がしたいことなのだろうか。いや、違う、とロルフはすぐに打ち消す。違くないのなら、さっきの涙に説明がつかなかった。リーゼルを連れ出したい。雲を見上げながらロルフは強く思った。
そのためには当然、飛行船に乗り込まなくてはならなかった。もちろん、ロルフが所有する飛行船なんてものは存在しない。ロルフは飛行船が見えなくなった以上、できることもなく、肩を落として家に帰ってきた。
部屋に吊るされたランプに火を入れると、暖炉の上の写真立てが目に入る。おばあさんが優しく微笑みかけている。俺が羊人間だったら、もっと知恵があったら、こんな状況を打開する賢い方法を思いつくことができたのだろうか。しかし、どんなにたらればを言ったところで自分は自分であった。
ああ、こんな時におばあさんに相談できたら。ロルフは昔の記憶を思い出す。
「ロルフ、本をお読みなさい。あんたは他の羊たちに比べれば覚えが悪いし、計算もからきしだが、決して馬鹿ではない。できるだけたくさん読むのです。本は頭を良くしてくれますからね」
おばあさんはロルフを膝の上に乗せ、本を読み聞かせながら言った。暖炉が赤々と燃えている。静かな冬の夜だった。
「うん、わかった!」
ロルフは頷く。
「でも、本を読んでもわからないことがあったら、どうしたらいいの?」
心配そうに聞くロルフにおばあさんは笑う。
「本を読んでもわからなかったら、私に聞きにいらっしゃい。それか、できるだけたくさんの人に聞いてみるのです。本の知恵だって、最初は作者の頭の中にある知恵なんですから」
日は暮れようとしていたが、ロルフは何も持たないで家を出た。
村を見下ろせる場所まで来たとき、甲高い笛の音がした。向こうのキイチゴの茂みの中に誰かが隠れていて、ロルフの様子をうかがっていたのだ。
「狼だ!狼が来たぞ!」
ジャンの声だった。
「待ってくれ、ジャン!俺だ!ロルフだ!話を聞いてほしいんだ!」
笛の音はなおも止むことはなく、村のほうからいくつもの松明の明かりが近づいてくるのが見える。村の防衛部隊と呼ばれる羊人間の若者たちが隊列を組み、侵入者を捕らえに向かってくるのだ。
「羊が一匹、羊が二匹……」
まじないを唱える声がする。とたんに体が重くなって自由に動かせなくなり、急激な眠気に頭がぼうとして、ロルフは片膝をつく。
「ジャン!」
ロルフは耳を塞いで力を振り絞り、茂みの中に飛び込む。目の前にジャンがいた。
「俺だ。捕まえないでくれ。話を聞いてほしいんだ」
ロルフは頭を下げて頼んだが、ジャンの目は冷酷だった。
「もう来るなと俺は警告したぞ。夕闇に紛れて村に入ろうとする狼をどうして信用できる?俺は、この村を、大切な人を守るためにここで生きてるんだ」
「羊が十九匹、羊が二十匹……」
まじないの声が近くなり、ロルフは気を失った。