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青き踏む  作者: 岡倉桜紅 原案:露
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ロルフは窓際のソファーに腰掛け、本を読んでいた。月が明るい夜は体力が体中にみなぎってくるようで眠れないのだ。真夜中が近い。ロルフは本を閉じて窓の外に目をやる。

夕方に意識を取り戻した少女は、そのまま家から走り出て、どこかに行ってしまっていた。ロルフは耳を澄ませる。夜の森の中は生命の音であふれていた。この山には、いや、この星の地上には、地域を限らずどこにでも『虫』という生物が住んでいる。虫たちは空以外の山、森、海、川、どこにでも生息する。虫は夜行性だ。虫の移動する、地面を這う音、草を食む音、枝を折るパキッという音。耳を澄ませるとその中に、早い鼓動と、荒い呼吸が混じっているのがわかった。

ロルフはランタンを持って外に出た。白樺の森へ分け入り、音のするほうへ向かっていく。悲鳴が聞こえた。

「虫に手を出したな」

ロルフは悲鳴のした場所へと走った。巨大なナメクジのような生き物が何かに覆いかぶさるようにしている。もがく翼がちらりと見える。虫は十メートルはあるだろうか。虫の大きさは一メートルに満たないものから個体によってさまざまだが、これはかなり大型なほうだ。

虫とは、ナメクジのような体からは緑色のイソギンチャクを思わせるような触手が無数に生えていて、ひょっとすると遠くから見れば緑色のふさふさした毛虫のようにも見えるだろう。正面からみると、大きなカタツムリの角のようなものが二本あり、大きな口には凶悪そうな牙がずらりと並ぶ。目はどこにあるのかロルフは知らなかった。もしかしたら無いのかもしれない。

「おい!虫!こっちだ!」

ロルフはランタンを振り回して叫んだ。虫はロルフのほうに注意を向ける。ロルフは手近な木にランタンをぶつけて割ると、中の油を虫にかけた。触手にかかった油はすぐに激しい炎となって燃え上がった。炎は夜の森を揺らぎながら照らした。虫はのたうち回るように暴れる。ロルフは、倒れている少女を引っ張って立たせ、逃げた。

「ハァ、ハァ。あれは何?急に襲われたと思ったら、大きな口が……」

大きな虫が見えなくなったところで、少女はへたり込んだ。体じゅうが虫の出した透明な粘液でぬめり、べたついていた。

「あれは虫だ。普段は草食でおとなしい奴らだけど、夜に挑発するようなことをすると襲われる」

「私、挑発なんか……!」

「あんたにそのつもりがなくたって、虫たちが怖いと思うような行動をしたらそれはもう挑発だ」

「……」

少女はうつむいた。震えているようだった。

「君、名前は?」

「リーゼル」

震える顔を上げて少女は言った。



「素敵な家ね。お風呂をありがとう」

リーゼルがタオルを持ってダイニングに戻ると、窓際のソファーに座っていたロルフは本を閉じた。

「そりゃどうも。一匹狼の一人暮らしさ」

ロルフはダイニングテーブルの椅子を勧め、自分はその向かいに腰掛ける。

「どうして、明るいうちに空に帰らなかったんだ?」

タオルで大きな翼を丁寧に拭くリーゼルにロルフは聞いた。

「それは、その……」

リーゼルは口ごもった。やがて、意を決したように言った。

「飛べないの」

「飛べない?鳥人間なのに?」

リーゼルは唇を噛んだ。ロルフはその様子を見て、自分が今どういうことを言ったのかということを言ってしまってから理解した。〇〇なのに、〇〇だから。これは自分が一番言われて嫌なことの一つではなかったのか。

「悪い。今のは忘れて」

リーゼルは首を振った。

「いいの。鳥なのに飛べないのは、おかしいよね」

「おかしいかは俺にはわからないけど」

「おかしいし、何より、困る」

リーゼルは抜けた羽を一枚、目の前にかざした。羽はランプの明かりに照らされ、紅鳶色に透いて輝いた。

「私はすぐに飛行船に帰らなきゃならないの。鳥なのに飛べなかったら、たくさんの人が困る」

「たくさんの人か」

「そう。私を必要としている人間がたくさんいるの。人間のために生きるの」

人間はもう何世紀も前から空に暮らしている。今、地球の大半の面積が海か森に覆われているが、数世紀前はそうではなかった。人間は木を切って森を開発し、都市を建設して工業を発展させていた。しかしある日、突然、ばくてりあ、だか、びせいぶつ、だかよくわからないが、とにかく今までは小さかった生き物が急に進化を遂げて巨大化した。虫、と呼ばれるようになったそいつらは、人間がわずかに開発せずに残した狭い森に住み、森を増やしていった。海の中にも住み、生態系をどんどん立て直していった。虫たちの這った後に残る粘液には、土壌を肥やす力があり、イソギンチャクのような触手ではこうごうせいというものを行って空気をきれいにし、虫の吐く息吹は、新たな緑の種となった。

環境が壊れかけていた地球にとって、虫の進化というのは、救世主の現れ以外の何物でもなかった。

しかし、人間にとって虫とは、救世主として手放しで崇められるほど都合のいい生き物ではなかった。虫の吐く息吹は、人間にとって毒だったのだ。人間以外の、狼人間や、羊人間といった亜人の類は、虫の息吹を吸っても平気だったが、虫の息吹を吸った人間はたちまち病気になった。人間の身勝手な居住域の拡大に、神がバランスをとろうと目論んだかのようにもとれた。人間は空に逃げた。虫は不毛の地も這い、火山の溶岩や汚染された海も泳いだが、空を飛ぶことだけはできなかったのだ。

「どうして空から落ちてきたの?」

リーゼルは記憶の奥底を探るように眉間に深くしわを作って考えるしぐさをしたが、やがて首を振った。

「わからない。どうして落ちてきたのか」

「俺が協力しようか」

ロルフは唐突に言った。リーゼルはぽかんとした顔でロルフを見つめた。

「空を飛ぶ練習」

落ちてきたのは、飛べなかったからだ。さっき言ってしまったことの償いになるかどうかわからないが、何かしてあげたかった。リーゼルは鳥人間の共同体できっと居心地が悪いはずだ。俺にはわかる。そうに決まっている。ロルフは目の前の飛べない鳥に自分を重ねた。

「なあ、飛ぼうよ」

「ありがとう」

リーゼルは微笑んだ。その笑顔がロルフには、同士だと認めてくれたかのように映った。

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