過去
「ロルフ、まだわかんないの?」
「早くしろよなー。授業進まねえぞー」
ロルフは震える手でチョークを握り直し、黒板の数式を必死ににらむ。しかし、解法がうまい具合に浮かぶことはない。教室全体がバランスを失ったかのよう揺れ始め、文字は勝手にぐるぐると動き出し、ばらばらになっていく。ああ、俺は何を聞かれていたんだっけ。気持ち悪い手汗でチョークが湿り気を帯びていく。
「はい、ロルフ君、そこまで。代わりにわかる人いるかな?」
おっとりした雰囲気の女の先生が、優しい手つきでロルフの手からチョークを取って振り返り、教室の生徒たちに尋ねる。教室いっぱいに並んだ机についた羊人間の子供たちは、元気に手を挙げた。
「なあ、ロルフってさあ、角生えねえの?」
昼休み、校舎の壁際にしゃがみ込み、足元の芝生をいじっているロルフに声をかけたのはジャンだった。他の羊人間の友達と遊んでいた途中だったからか、手にはボールを持っている。
「生えないよ。そして、この尻尾と耳も取れたりしないんだ」
ロルフは自分の尻尾の先を口まで持ってきて噛んだ。
「なんで?」
ロルフは尻尾を口から離し、ジャンの頭上で小さな渦巻を作っている角を恨めしそうに見上げる。
「俺が、狼だから」
「ふうん、そうか」
ジャンは軽く相槌を打った。ボールを指先で回すようにしてもてあそぶ。
「それより、あっちで遊ぼうよ」
光のあふれる芝生の庭には、たくさんの羊人間の生徒たちが戯れていた。
「俺はいいよ。気にしないで」
ジャンはそう、と言うと、友達のもとに走っていった。ロルフは爪を噛んだ。ここ最近、爪が毎日異常に伸びるし、日に日に硬く、鋭くなっている。みんなのボールを傷つけたくなかった。
一人で暮らす、と言った時、おばあさんはショックを受けた顔をした。
「俺はもうここにはいられないよ」
おばあさんの胸を押さえてあふれだそうとする感情を何とか押し隠そうとする様は、純粋に孫のように可愛がっていた少年との別れに心を痛めているようだった。
やがて、おばあさんはロルフの肩を押し下げるように触れた。ロルフはおばあさんの前に膝をついた状態になって見上げる。おばあさんはロルフの耳を優しくなでた。少年の背丈は伸び、いつしか村のどの羊人間よりも大きくなっていた。
俺は、羊人間になりたかった。