壱の9.四メートルが境
上空を、巨大な旅客機がごう音をとどろかせ低空飛行で横切った。
おれと瑠奈を乗せた小型車は、地元では「海中道路」と呼ばれる、海を堤防のように埋め立てた土手を走っていた。土手にはきれいに舗装された片側一車線の道路が張り付けられ、空港南一・五キロにある離れ小島とつながっている。
「車は止められないみたいだな。昔は止められたはずだけど」
「ずっと前に母さんと来た時は、ここを渡った向こう側の駐車場に止めたよ」
瑠奈の言を信じて、おれは車を進ませた。
確かに、離れ小島には立派な駐車場が複数整備されていた。どこも満車状態だが、幸い空くのを長時間待つことなく、すぐに止められた。
離れ小島では、おれの大学時代にはなかったはずの観光資源が開発されている。ホテルやレジャー施設がある。本島との行き来のために、海中道路は有効活用されているようだ。改めて思い起こすと、渡ってきたばかりの道路は記憶に残るかつての海中道路より拡幅されているような気がする。
おれと瑠奈は車を駐車場に残し、海中道路に歩いて戻った。道路両サイドには、観光客か地元民か分からない軽装の若い男女があちらこちらで欄干にもたれかかり、発着する航空機を待っているようだ。
海中道路は端から端まで東西五百メートルほどの直線で、どの辺りが航路の真下に当たるのか分からない。瑠奈と並んで本島側を目指して歩いていると、右手の南の空からごう音が聴こえ機影が見えたかと思った瞬間、あっと言う間に頭上を通過し一キロ半先の滑走路に吸い込まれていった。
「この辺で見てようか」
「うん。あんまり行くと車に戻るのが大変だしね。父さん、活発じゃなさそうなお年寄りだから」
「そうだな。母さんに言われた通りデブで体が重たい」
おれと瑠奈は人がまばらな場所を選んで、空港側の欄干に肘をついた。
飛行機は、数分おきにほぼ真上を通過する。この空港が国内有数の着陸回数を誇っているとなにかで読んだことを、おれは改めて思い出した。
「イルカみたいだねえ」
滑走路に降りていく機体を見ながら、瑠奈が言った。
「瑠奈、イルカを間近で見たことあるか」
「あるよ、水族館で。プールで芸をするんだよ。そろってジャンプしたり、輪をくぐったり、飼育員のお姉さんを背中に乗せたまま泳いだり」
「オキちゃん劇場だな」
「そうそう、オキちゃん。父さんの頃もいたの?」
「代替わりはしてるよ。イルカってそんなに寿命が長くないから」
「あの水族館、まだ新しい感じがするんだけどな」
「建て替えたんだよ。昔は、今あるのよりずっと狭くて古かったんだ。母さんと一緒に行ったこともあるよ。瑠奈が生まれるずっと前」
「へええ」
「オキちゃんがジャンプするだろ。そしたら母さん、新鮮なお魚みたいでおいしそうとか言うんだよ。周りの人になんて思われたか」
瑠奈が、この日一番の笑い声を上げた。欄干から肘を離し腰と膝を折り曲げ、両手をたたいて喜んだ。
「母さんらしいね」
「今でもそうだぞ。あんまり母さんを水族館に連れて行かない方がいい。きっと狙ってるから」
道中、車内で瑠奈が見せた沈んだ表情はなにが原因だったのか。分からない。おれはそのことが頭から離れないでいた。しかし、飛行機を見ている瑠奈は陽気を取り戻している。
「瑠奈、イルカとクジラの違いって知ってるか」
「イルカとクジラ。色とかかな」
「全長が四メートルより短いのがイルカで、それより長いのがクジラなんだってさ。もともと同じ種らしいよ」
「えええ。大きく育つのっぽのイルカもいるはずなのに。四メートルぎりぎりの子はどうなるの」
「そうなんだよ。父さんもその説明には、全く納得してない」
「クジラの赤ちゃんは、イルカと間違われちゃうね」
「水族館のオキちゃんも、実はクジラの子どもなのかもしれんぞ。ぐんぐん成長して四メートルを超えて、水槽からもプールからもはみ出しちゃったりして」
「その分け方って、外国でもそうなのかな」
「それがまた複雑でさ。英語でイルカはドルフィンだろ、クジラはホエールだろ、英語圏でも別に分類してるんだよ。その境目が日本と同じなのかどうか、残念ながら父さんは知らん。調べとくの忘れた。瑠奈が調べておいてくれ」
「分かった。クイズの得意な瑠奈博士でも知らなかったよ」
(「壱の10.誰も困らないから捕まらない」に続く)