壱の8.母校の学生にならない
土地がそう広くない島に立地するのにも関わらず、おれが卒業したこの大学のキャンパス面積は、国内トップ・テンに入るという。島独特のごつごつした複雑な地形を切り開いて造成されており、キャンパス中央に大きな沼がある。沼の反対側の施設との行き来のために高くて長い橋が架かる。沼とそのほとりは大部分が育ちのよい亜熱帯植物に囲まれ、全貌は橋の上からでも確認できない。
公共交通機関が未発達なせいと、戦後二十七年にわたり米国の統治下に置かれた影響でライフスタイルがアメリカンナイズされているために、学生の多くが自家用車通学し、そのための駐車場が、何台分あるのか数えきれないほどの広さで完備されている。亜熱帯の植生に覆われだだっ広い駐車場のあるキャンパスがおれにとっての常識だったから、卒業して本土のほかの都市の大学を見た時には、違和感を覚えたものだ。
「入れるの」
「分からんなあ。父さんが通ってたころは、だれでもいつでも出入り自由だったんだけどな」
三カ所ある出入り口のうち、当時、周囲が最も栄えていた北口から進入した。守衛小屋があるものの、立ち番はいない。小屋も無人のように見える。小屋の前をそのまま車で通過した。夏休み期間中のはずなのに、車やバイクが続々と出入りしている。
「さて、ここでクイズがあります」
「瑠奈、クイズ得意だよ」
「今から、大学をぐるっと一周する道路を走ります。一周でどれくらいの道のりがあったか、ゴールに着いたら答えてください」
「三キロ」
「なんだ、知ってるのか」
「母さんが言ってた。ループ道路でしょ」
「そう。インターネットの地図で見るとループ道路の内側だけが大学の敷地っていう色分けになってるんだけど、道路のずっと外側まで大学の施設があるんだよ」
「間違われて、損してる気分だね」
「本当はもっと広いのにな」
キャンパス内に三基設置されている信号機の色に従い、車は時計回りでループ道路に入った。何台もの対向車とすれ違った。
「みんな、ずいぶんゆっくり走ってるな。父さんの時代は結構、飛ばしてたんだけど。それと、あのポール。あんなのなかったよ」
道路のセンターライン上に、十メートルほどごとにラバー製らしいくすんだ赤いポールが立っている。人の腰の高さほどのポールは、根本がアスファルトに埋め込まれ固定されているようだ。
「父さんみたいに飛ばす人がいるからだよ。それで事故になったら大変じゃん」
「事故はしょっちゅう見たよ。父さんのころはまだ車よりバイクの方がずっと多くてさ、左カーブで曲がり切れなくてこけちゃって、センターラインを越えて対向車と正面衝突ってのが日常茶飯事だった」
「バイクは怖いから乗らない」
「そうだな。乗らん方がいい」
おれが卒業した学部棟は、ループ道路からでは亜熱帯の木々に阻まれ建物のてっぺん付近しか見えない。わずかに顔をのぞかせている最上層付近にもツタが壁を伝って触手を伸ばし、平面のはずの壁を複雑な様相に変えている。
「父さんが教わった先生とか、まだいるの」
「二十年経ってるからな。もう死んでるか定年退官を迎えてるよ。もしいても、父さんのことなんか絶対に覚えてない。だいたい、父さん自身が教授の顔も名前も全然記憶にないんだから」
はははと瑠奈は笑った。
「友だちとかは」
「島の同級生は、たいがい島で就職したよ。本土から来てた連中は、あらかた本土に帰った。転勤で島を出たり入ったりしてるのもいるみたいなんだけど、今だれがどこでなにしているのか、よく分からん」
「ふうん」
「瑠奈もここの学生になるか」
「ならない」
即答だった。
「そうだな。ろくでもない大学だ」
一周三キロのコースを巡り、入ってきたのと同じ北口から出た。
「どこに行きたい。どこにでも連れていくぞ。北海道でも台湾でもいいぞ」
「飛行機が見たい」
「米軍の戦闘機か」
「違うよ、普通の飛行機。北海道とか台湾とかに旅行するとき乗るやつ」
おれは、車を南進させた。空港のある南部エリアに逆戻りだ。中部エリアを抜ける途中、サトウキビ畑に囲まれた小高い丘の上に、古い白亜の建物が見えてきた。
「瑠奈が生まれた病院だ」
「うん」
「母さんが看護師になるずっと前だな」
「うん」
「アメリカ人のお医者さんが取り上げてくれたんだぞ」
「うん」
「母さんもこの病院で生まれたんだってな」
「うん」
「あおいちゃんもそうだったか。あれ、それとも母さんの勤めてる県立病院か」
「……」
それまで積極的に話し、おれの冗談にも応じていた瑠奈が、突然黙りこくってしまった。おれは、瑠奈の表情を横目で確かめた。瑠奈はシートベルトを枕のように挟み、窓に側頭部を預けている。
「瑠奈」
「……」
「気分が悪くなったりトイレに行きたくなったりしたら言えよ」
「うん」
さっきまでの「うん」とは、全く声の調子が異なっていた。
(「壱の9.四メートルが境」に続く)