壱の7.ブラック顧客
「車でしょ」
夕香里が聴いてきた。
「おう、あの高級車な。あれで海を渡ってきたぞ。途中で米軍の潜水艦とすれ違った」
顎をしゃくっておれが冗談を言う前に夕香里は、借りてきた小型車を視認したようだ。そして、玄関扉に姿を隠したかと思うとまたすぐに出てきた。古ぼけた革の財布を手にしている。
「瑠奈、晩ご飯は父さんにごちそうしてもらいなさい」
夕香里は財布から一万円札を一枚抜き取り、おれに手渡そうとした。
「いらんよ。おれは今、バブルで潤ってるんだ」
新聞社を辞めておれは、原稿を買ってくれる媒体を血眼になって探した。転職の壁とされる三十五歳をとうに過ぎていた。社会の裏を暴いてきた経歴で、その職場さえ追われた嫌われ者の人間を雇ってくれる会社はなかった。
知り合いのつてを頼った。インターネットのソーシャル・ネットワーキング・サービスに登録した。求人サイトで書き手を募集している会社に、雇用されなくて構わないから原稿だけでも使ってもらえないかと頭を下げて回った。
どんなに原稿料の安い仕事でも請け負った。低俗な成人向け雑誌やアダルトサイトに載せる記事を書いた。長きにわたる出版不況の上に、そもそももろい構造の業界だから、報酬の不払いや発注元の倒産に見舞われた。
派遣会社のアルバイト社員として、終日テレビ放送する通販番組のコールセンターでの深夜の電話対応業務という未経験の職種にも就いた。自らの生活のためだ。夕香里への瑠奈のための養育費は、失業保険が途絶えわずかな額の退職金が底を突いてから滞っている。その間に、クレジットカードも健康保険証も手放さなければならなくなった。
体当たりの潜入取材もので、著書を二作書き下ろした。いずれも版を重ねたが、その印税収入では、どん底の生活からはい上がることはできなかった。
それとは別に、複数の雑誌やウェブ媒体に立て続けに出稿していた統一テーマを一本にまとめた作品で、伝統のあるノンフィクション賞を受けた。副賞で、まとまったお金が入った。
受賞作は、賞を主催する版元から単行本として出版され、おれと担当編集者の予想を大幅に上回るペースで売れた。
勢いのあるうちに続編を出そうと、編集者から持ちかけられた。存外の提案だ。快諾した。賞に応募した際、指定の文字数に収まるよう極端に原稿の推敲を重ねたから、作品で明かしていない手の内は山ほどある。続編の執筆は容易だった。
考え得る限りの方法で、おれは都内のほかの版元にも営業展開した。企画書を練り上げ、あちこちに持ち込んだ。それまでにいろいろな媒体で発表した成果物や、未発表、未完成の作品を寄せ集め、追加取材や加筆を行うことで、雑誌への掲載や単行本としての出版をしてもらえるよう売り込んだ。受賞の実績が功を奏し、手持ちの原稿が順次採用されるようになった。
おれは、お金が必要だった。瑠奈に会いに行かなければならなかった。養育費を復活させなければならなかった。滞納している住民税や年金、国民健康保険の保険料のことは後回しにした。支払いが滞ったまま効力を失ったクレジットカードは信用情報機関のリストにブラック顧客として履歴が登録されているはずだから、実現性の薄い再発行や新規申し込みの手続きはしていない。債務の返済や整理にも手を付けていない。
夕香里の差し出した一万円札をおれが断ると夕香里は、瑠奈がたすき掛けにしている小さなバッグを開けさせた。
「あんたが持ってなさい」
瑠奈の小さな財布に、一万円札を四つ折りにして押し込んだ。
Tシャツに薄手のパーカーを羽織りハーフパンツ姿の瑠奈は、出掛ける準備がすっかり整っている。靴も、外出用らしいスニーカーを履いている。
二人がどういう暮らしをしているのか、おれはずっと気に掛かっていた。隣の玄関との間隔から勘定しても、専有面積がそう広そうにも、部屋数があるようにも思えない。ここに、あおいと、夕香里が追い出したというあおいの父親と合わせて四人で暮らしていたのだろうかといぶかった。
しかし、おれの知らないところで夕香里は、伴侶との新しい人生をスタートさせていた。夕香里と瑠奈とあおいと、追い出したあおいの父親との生活に足を踏み入れることは、おれにはできないのだと悟った。
もし夕香里と瑠奈が二人だけで暮らしていたとしても、立ち入るべきではないのだとも思う。最初から立ち入るつもりはなかった。状況がどうであれ、夕香里も瑠奈も、おれに立ち入らせるつもりはなかっただろう。夕香里は、おれが家に到着したらすぐに回れ右させ瑠奈と一緒に出掛けさせる手はずだったに違いない。
それでいいのだ。おれは、何年もの間、何百回も何千回も夢に出てきた瑠奈と再会することができた。すっかり島のおばちゃんと化し、思わぬことに二児の母になっていた、中身のあまり変わらない夕香里とも、少なくとも表面上はそう険悪でもない関係を確認することができた。
「瑠奈を借りてくぞ。瑠奈、おまえが運転するか」
「したいけどできないよ」
おれは小型車の助手席に瑠奈を乗せ、夕香里とあおいに見送られながら、細くて曲がりくねった緩い坂道を下っていった。
「瑠奈の家の辺りから、じいちゃん、ばあちゃんの家は見えるか」
「見えるはずなんだけど、どこにあるか探せないんだよ。デジカメのズームを最大にしても分からない。向こうからも、こっちが見つからないんだよね」
「行ったり来たりはしてるか」
「うん。こっちから行ってばかりだけど」
「じいちゃんもばあちゃんも元気か」
「元気だよ。最近の高齢者は活発なんだよ。いろいろ社会参加してる」
大人びた瑠奈の口ぶりが、おれはおかしくてしょうがない。
「瑠奈、ちょっと大学に寄ってみていいかな」
「いいよ」
おれが通った島唯一の国立大学は、瑠奈たちの住む町から近い、同じ中部エリアにある。高校を卒業する春、その大学の入試を受験するため、おれはこの島を初めて訪れた。
望んで来たわけではない。ほかに行けるところがなかった。私立大学への進学や浪人しての予備校通いは、生家の経済的な事情で許されなかった。大学時代にアルバイト先で、別の学校に通う一つ年下の夕香里と知り合った。
(「壱の8.母校の学生にならない」に続く)