壱の6.他人の子
しゃがんだままのおれは、縫いぐるみを抱えるあおいの頬を両手で包んで、目鼻立ちを点検した。髪の毛を触った。髪をすくって耳の形を確かめた。手の形を見た。自分の親指と中指を巻きつけ、腕の太さを測った。幼いころの瑠奈と、やはり、似ているような、それでいて似ていないような、不思議な感覚だ。
「他人の子が、そんなにかわいいの」
あおいに構っているおれの挙動が不審なのか、頭上から夕香里があきれたように言った。
「だって、瑠奈の妹じゃないか」
自然に言葉が出た。なんの偽りもない。立ったままの夕香里はなにも言わなかった。あおいの体の特徴を一つ一つ確認していて頭上の夕香里を見上げなかったから、夕香里がどんな表情をしていたのか分からない。
「瑠奈、なにしてるの。父さん、来てるんだよ」
夕香里が103号室の玄関から奥に声を掛けた。いたのか、とおれはちょっと驚いた。
「準備してたんだよ」
四年ぶりの瑠奈が、開け放たれた扉ののれんの陰から姿を現した。携帯電話のメール交換で互いに自分の写真を添付しようと持ち掛けたおれの提案を瑠奈は受け入れてくれていたから、その成長ぶりと直近の容姿は分かっているつもりだった。でも、実際の瑠奈は写真より大人びて見える。想像よりずっと背丈が伸びている。元気そうだ。
瑠奈が小学三年だった六年前に最後に島に来た後、おれは、小学四年と五年のそれぞれ夏休みに瑠奈を東京に呼び寄せた。瑠奈は二度とも、一人で飛行機に乗ってきた。島の空港の地上職員から客室乗務員へ、客室乗務員から羽田空港の地上職員へと確実にリレーされ、おれの元に到着した。帰島の際はそれを逆ルートにした。
小学四年の時、おれは会社の夏期休暇を瑠奈の上京に合わせて取らせてもらった。二度目の小学五年の時は、長患いのため休職中だった。それを最後に、おれが瑠奈に会いに島を訪れることも、瑠奈を呼び寄せることもできなくなった。
「父さん」
いつから瑠奈がおれのことをそう呼ぶようになったのか、記憶にない。一緒に暮らしていたころは、パパかパパちゃんだった。
島の幼稚園で父の日にちなんで描いたというおれの似顔絵にも、顔の横に、《ぱぱ ありがとう》とクレヨンでつづられていた。
《ままはおこるからきらいです ぱぱはやさしいからすきです》
こんな手紙が届いたことがある。物心がつくかつかないかの時期から別居して、おれから優しくされた記憶なんてほとんどないはずなのに。
《わがままお嬢さまをいつ引き取りに来ますか》
夕香里の筆跡で注釈が添えられていた。封筒の宛て名書きも夕香里の字だ。瑠奈の落書きのような所業を面白がって、郵送してきたのだ。
引き取りたいのはもちろんだが、生活リズムの不規則な新聞記者の男親が一人で幼子を育てることができようはずもない。そのことを夕香里はよく分かっているから、軽口をたたくようにこんな挑発めいた文章が書けるのだと納得した。
小学校の入学式にも出席した。離婚後のことだが、小学三年の運動会も見にいった。島を訪れたのは、その運動会の日が最後だった。
「姉々、ほら見て。クマさんだよ」
抱いている縫いぐるみの顔をあおいが瑠奈に向けて見せる。おれは、片手だけで合掌の合図をしてウインクで瑠奈にわびた。瑠奈はすぐに理解したようで、おれに向かってうなずいた。「よかったね」と言って、クマの頭を手のひらでぽんぽんと軽くたたいた。おれは一安心した。
「大きくなったな、瑠奈。母さんを追い越してるだろ、身長」
おれも夕香里も瑠奈も、おれのことは父さん、夕香里のことは母さんと、接頭語を付けずに呼ぶ。お父さん、お母さんとは呼ばない。夕香里の方針だと思う。だけど、その呼び習わしの根拠がどこにあるのかおれは知らない。夕香里は、おれが知る限り両親のことを、父ちゃん、母ちゃんと呼んでいた。
「去年ぐらいに追い越したよ。だからもう、同じ服は着られない」
「なんだ、母さんの服を着せられてたのか。おばさんに見られちゃうぞ」
「違うよ。母さんが瑠奈の古い服を勝手に着るんだよ」
瑠奈は、わたしと言わない。この島に住むほぼ全ての若い女性の慣習にのっとり、一人称で自分の名前をそのまま使う。
「授業は終わったのか」
「日曜だよ。きょうは休み」
会社を辞めてからずっと、曜日の感覚を失っていた。塾に行っている時間帯だと気を使って瑠奈の携帯電話を鳴らさなかったのは、取り越し苦労だった。
「朝からなにしてた」
「勉強してた。というのはうそで、さっき起きた。朝ご飯と昼ご飯、一緒だった」
「母さん並みの朝寝坊だな。父さんは、母さんが作った朝ご飯、食べたことがないよ。仕事に出掛けるときのお見送りも受けたことがない」
瑠奈はあははと笑ったが、夕香里が嫌そうな顔をしたから、この話題はやめにした。自分のぐうたらぶりを掘り返されるのが不満なのではなく、離婚前の、おれと夫婦だった時代のことを思い起こさせられたり瑠奈にいらぬ知恵を付けられたりするのが気に食わないのだろう。
(「壱の7.ブラック顧客」に続く)