壱の5.不完全なサイン
「太ったね。髪の毛はまだ大丈夫か」
おれを見るなり、夕香里は言った。
「ほかに言うことはないのかよ」
夕香里の変わらぬぶっきらぼうさが、おれはたまらなくうれしい。
「めんそうれ」
「わざとらしい」
歓迎を意味するその島言葉が夕香里の本心であろうがなかろうが、おれにはどっちでもよかった。
開け放しの扉から夕香里に続いて出てきた先ほどの女児は、夕香里の両脚に隠れ顔だけ出してこちらを見ている。タンクトップにショートパンツ姿で、サンダルを左右逆に履いている。髪の長さがなければ、男児でも通用する顔立ちと服装だ。おれは、しゃがんで女児の目の高さに合わせて尋ねた。
「お名前は」
「あおい。ひがあおい」
見た目とたがわぬ、男の子のようなはつらつとした声だ。
「あおいちゃんか。いくつ」
右手の指で数字のサインを作ろうとしてうまくいかず、あおいは左手を使って右手の小指と親指を押さえ、不完全な「三」を示して見せた。
「三歳か。かわいいなあ、どこの子だ」
「うちの子よ。わたしの子」
聴き間違えたのかとおれは思った。しかし、夕香里とは六年間顔を合わせていない。後半には、声を交わしたこともなければ、文面のやり取りもない。夕香里がその間に子を成していても、少しも不思議なことではない。
そんなことより、おれは、とても安心した。四人きょうだいの第一子として少女のころから妹や弟の面倒を見てきた夕香里は、自らも子だくさんになりたいと望んでいた。おれは、親一人子一人の夕香里と、きょうだいがいない瑠奈にずっと申し訳ない思いでいた。
夕香里はしゃがんで、あおいを抱き寄せ頬にせっぷんする。
「暑い、いや」
あおいは夕香里から逃れようと、夕香里の顔を手で突っぱねた。
瑠奈の異父妹に当たるあおいは、瑠奈に似ているようにも、まったく似ていないようにも見える。
「仕事か」
おれは親指を立てて、瑠奈の父親のことをジェスチャーで夕香里に聴いた。
「追い出しちゃったよ。ほら、表札も外しちゃった」
夕香里は立ち上がり、玄関扉の上の、プレートのはまっていない表札の土台を指さした。
「なんだよ、おまえも夫運がないねえ」
瑠奈のために買い求めていたクマの縫いぐるみのことをおれは思い出した。車に戻り、デパートの包みを箱から破り取り、あおいのところに戻った。そして再び、あおいの目の高さに合わせてしゃがんだ。
「あおいちゃん、あおいちゃん。わたしは、だあれ」
箱からクマの顔だけ出して、テレビか映画のアニメーション作品の声優のような口まねをした。
「クマさん?」
「そうです、クマさんでした。あおいちゃん、抱っこしてえ」
「かわいい」
縫いぐるみ本体をくるんでいた薄い紙の包装をおれが完全に取り去る前に、あおいは縫いぐるみに両手で抱きついてきた。
「今も県立病院なのか」
夕香里を見上げ、尋ねてみた。
「うん。小児科病棟にいる。出番の時は、この子を院内保育に預けて」
「そうか。よかったな。おまえ、昔から子ども好きだったからな」
瑠奈を連れて家を出た時、夕香里は、看護師になるため島の看護学校に通うことを理由に挙げた。幼い瑠奈を昼間両親に預け、夕香里は実際に看護学校に三年通った。卒業して看護師の資格を取得し、県立病院に就職して間もなく離婚を切り出してきた。
「長く別居してると結局、別れることになっちゃうよ」
おれの境遇を知っている取材先の官庁幹部らは、脅しともアドバイスとも取れる口調でおれに哀れみの念を示した。夕香里と瑠奈が幸せになるのならそれも仕方ないと、おれは覚悟していた。離婚を切り出された際は、夕香里による三年がかり、もしくはそれを上回る長期戦略だったのだろうかとも推量した。
ただ、子ども好きの夕香里との間に瑠奈という娘一人しか成せなかったのは、おれにとっても残念なことだった。
高齢出産は母子双方にとって健康などさまざまな面で好ましくないと聴いていたから、おれは夕香里に、早期の再婚を勧めるべきだと自覚していた。しかし、実際には一度もそのことに触れていない。瑠奈をだれかに連れていかれるのが怖かった。夕香里がほかのだれかのものになるのが嫌だったのかもしれない。二番目の理由については、自分でもよく分からない。そのうち連絡を絶つよう言われだし、再婚を勧める機会を逃した。
おれは、合点がいった。夕香里は新しい人生を歩もうとしていた。新しい幸せを手に入れようとしていたのだ。そこに、おれの存在は邪魔だった。
そして、子どもができたことをおれに教えないよう瑠奈に言いつけた。もしくは、瑠奈の瑠奈なりの判断で、おれには伝えなかった。
幸いなことにおれは外国のような遠隔地に住んでいるから、連絡を絶つことで、おれの影を気にすることも、存在をおびえる必然性もなかったのだ。
辛うじて許される瑠奈との電話で、瑠奈が、かける前に必ず先にメールを送ってきてほしいと言っていた理由も筋が通る。電話にあおいやあおいの父親の声が入るとまずいという、夕香里なりの、あるいは瑠奈なりの、おれやあおいやあおいの父親に対する配慮だったのだ。
子ども好きの夕香里が二人目の娘を授かったこと、小児科病棟で働いているということの双方が、夕香里にとってこの上なく幸せなことなのではないかと、おれは神に感謝したい思いに駆られた。
(「壱の6.他人の子」に続く)




