壱の4.島のおばちゃん
中部エリアに入ると、道路はすいてきた。片側二車線の国道バイパスで米軍の大型車両何台もとすれ違った。本土では見慣れぬ黒い車体で、運転席が左側にある。そのうちの一台は、若い白人女性の兵士が運転していた。オレンジ色レンズのサングラスを掛けた女性兵士は、ガムをかんでいるようだ。
〈目的地、周辺です。案内を終了します〉
女性の声を模倣した無機質な機械音でカーナビゲーションが告げた場所は、高台にある、曲がりくねった細い道の緩やかな坂の途中だ。見通しのよさそうな場所でおれは車を止め降りてみた。
太平洋の入り江が眼下に広がる。入り江のほとりには石油の備蓄基地があり、円柱型のタンクが連なる。電力会社の火力発電所の物らしい煙突が白い煙を吐く。
夕香里が育った、今も両親の暮らす家が、入り江の手前にあるはずだ。夕香里は両親と「スープの冷めない距離」のすみかを選んだのであろうと容易に想像できる。
別居前、東京からだと韓国に行くよりもずっと遠いこの島に、夕香里は瑠奈を連れて年に一度だけ帰省した。多額の交通費を払い幼子を長時間連れ回しての移動でもあるため、帰還する日を決めず長逗留していた。
瑠奈は、パパよりもママという言葉を先に覚えた。それより早く、じいちゃん、ばあちゃんを覚えた。夕香里の両親にとって瑠奈は初孫で、目に入れても痛くないほどのかわいがりようだった。両親の家に滞在中に、瑠奈は言語を発達させていた。
瑠奈の声を聴くために、瑠奈におれの声を聴かせるために、おれは、仕事のない晩には必ず夕香里の実家に電話した。クリアな音質で聴きたい、聴かせたいから、固定電話から固定電話にかけた。
〈パパだよ。ほら、パパって言ってごらん〉
電話口では、夕香里と瑠奈が長期にわたって家を空けていることでおれに気を使っているに違いない夕香里の両親が、瑠奈にパパと言わせようと仕向ける。
〈パッパ。パッパ〉
じいちゃん、ばあちゃん、ママは上手に言えるのに、電話口の瑠奈は、しばらくおれの顔を見ていないせいか、パパだけはたどたどしい。
道路の両側には、民家がぽつんぽつんとまばらに建っている。集合住宅のような建物は、一軒しか見当たらない。おれは、車をそこまで移動させた。
二階建てで、海からの風にさらされるためか外壁が傷んでいる。傷んだ上から青く塗り直した跡がある。建物の名称は、道路から見える限り表示がない。
車に積んである荷物の中から手帳を取り出し、改めて番地を確認した。この建物のようだ。
手帳に記されている103号室は、一階にあった。塗装のはがれ落ちたスチール製の玄関扉は風通しのためであろう、半開きだ。扉を施錠するための短いチェーンでそれより開かないよう、そして、コンクリートブロックの破片のようなものを挟み込み、それより閉まらないよう固定されている。扉の内側に掛かる白いレースののれんがなびいてすき間から裾をのぞかせる。テレビかららしい音声が聴こえる。
表札は出ていない。扉の上の、プレートをはめ込む仕組みになっている表札の土台には、なにもはまっていない。
両隣を確認してみた。いずれも、住人と思われる名字の表札がある。両隣の玄関扉は完全に閉まっている。
腕の時計の針は、一時を回っている。夏期講習の午前コースを受けているはずの瑠奈の授業はもう終わったころだと思い、おれは、携帯電話を取り出した。着信がないことを確かめ瑠奈宛てのメッセージを打ち込んでいたら、103号室の半開きの玄関扉の隙間から幼児がこちらをのぞいているのに気付いた。髪が長いから女の子だと分かった。
やっぱり間違っていた。ここじゃなかった。おれは、携帯電話を握ったまま車に戻ろうとした。女児を呼ぶ声が、103号室の玄関扉の向こうから聴こえた。
「だめだよ、お外は行かないよ。こっちおいで」
懐かしい夕香里の声だ。扉の隙間から、女児の姿は消えた。サンダルの音がして、ブロックの破片がだれか大人の細い手指によって扉の向こうに引き込まれた。扉は鈍い音を立てて一度閉まった。同時にチェーンロックを開錠する音が聴こえ、今度は扉が完全に開き、夕香里が出てきた。六年ぶりに顔を合わせた夕香里は、かつてよく目にした、まさしく島のおばちゃんになっていた。
(「壱の5.不完全なサイン」に続く)