壱の3.体温とシャンプーのにおい
――パパちゃん――
夜見る夢に出てくる幼い娘は、おれのことを必ずそう呼ぶ。元妻が戯れで教えたなんにでもちゃんの敬称を付ける呼び方を気に入ったようで、娘はしばらくの間、おれたちのことを、パパちゃん、ママちゃんと呼んでいた。
夢の中で娘は、おれの姿を認め、はしゃいで駆け寄ってくる。まるで全身全霊を注ぐかのように、四肢でおれの片脚にしがみつく。しゃがんでやれば、胸に飛び込んでくる。抱き上げた時の娘の体温と小児用シャンプーのにおいが、目を覚ましてもおれの体の芯に残る。十年以上、同じような夢ばかり見ている。
「瑠奈、どこだ。パパのところにおいで」
夜中に目を覚まし、夢うつつで、なん度声に出し娘の名を呼び、いるはずのないその姿を探したか知れない。
瑠奈が三歳の時に、妻の夕香里は瑠奈を連れて家を出た。二人は、夕香里の生まれ故郷である島に帰った。その後、正式に離婚した。
まだ三人で暮らしていたころ、職場にちょっと変わった上司がいた。
「む、む、む、娘がおらんようになったらしいぞ」
どもり癖のある上司にいきなり言われ、おれは、目の前が真っ暗になった。瑠奈が行方不明になったのだと思った。
当時のおれは、新聞記者として事件取材を担当していた。おれの仕事のせいで、瑠奈がよくないことに巻き込まれたのだと観念した。従業員である記者やその家族の安全にはてんでむとんちゃくな会社だった。いつかこういう事態に巻き込まれるのではないかと危惧していた矢先のことだ。
しかし、おらんようになったと上司が言ったのは、瑠奈のことではなかった。追っていた刑事事件のカギを握る、容疑者の娘のことだった。おれは、全身の力が抜けた。無神経な上司に強く抗議した。
別居後、車を運転して移動している最中に携帯電話が鳴った。運転中の携帯電話使用は法律で禁止され、罰則規定もできていた。それでもおれたちは職業柄、常に緊急の連絡を受けることから、電話を取らざるを得ない。
〈瑠奈ちゃんのお父さまですね〉
知らない女性の、抑揚のない声だ。発信元は見なかった。相手も名乗らなかった。おれは急ブレーキを踏んだ。瑠奈がなに者かにさらわれたのだと直感した。身代金を要求する類いの電話だと思った。後続車から追突されそうになり、長いホーンを鳴らされた。左右のタイヤの減りが不均衡なためかブレーキパッドがそうなのか、あるいはおれが無意識にステアリングを切っていたのか、車は車線上で斜めに止まった。
電話の主は、島の役場職員だった。瑠奈の扶養に関する問い合わせだった。怒る気も失せた。抗議しても相手には通じないだろうと諦めた。
瑠奈は成長し、中学三年になった。でも、おれの夢に現れる、おれが四六時中思い出す瑠奈は、三歳で成長が止まっている。おれを見つけて「パパちゃん」と呼びながらうれしそうに駆けてくる、ちび助のままだ。
おれは、瑠奈に会うという目的だけのために、この島に来た。小学五年の時に島から呼び寄せてから、顔を合わせるのは四年ぶりになる。
瑠奈への土産を東京で探したのだが、これといった物が見つからなかった。どれも島でも手に入りそうな物や、ネットショッピングで買えそうな物ばかりだ。
デビットカード決済で車を借りることができ第一関門を突破したおれは、次に瑠奈への土産を調達するため、県庁そばにある地元資本のデパートに向け、借りた小型車を走らせた。
片側三車線の幹線道路は、相変わらずの渋滞ぶりだ。県庁所在地の人口密集度は大都市並みだというのに、地形や歴史的背景から、公共交通機関が発達していない。世紀が代わって間もなくモノレールが開通し、その後も徐々に延伸しているものの、それだけではとうてい島民の移動の足を確保できず、焼け石に水だ。すさまじい数の車と、本土と異なりまだ需要の衰えない大小の排気量のバイクが、一年三百六十五日、二十四時間、道路を埋め尽くす。
デパートで、欧州ブランドだというクマの縫いぐるみを買った。中学三年の女の子には子どもっぽ過ぎるかもしれないとも思ったのだが、迷っているうちに訳が分からなくなった。
二つ目の関門をクリアし、シリアスな悩みは消し飛んだ。おれは、夕香里と瑠奈の住むアパートに向かった。大体の場所は分かっている。空港や県庁がある島の南部エリアから、道がすいていれば一時間も掛からない、中部エリアの外れだ。
島到着の連絡はしていない。高校入試受験に向けた夏休みの夏期講習で瑠奈は塾に行っているはずの時間帯だ。携帯電話を鳴らすことははばかられた。
夕香里には一切の連絡を取らないようにと、きつく本人から言われている。必要なことは、全て瑠奈を通せとの厳命だ。その代わり、瑠奈と連絡を取り合うことは許されている。
瑠奈が携帯電話を持たされるようになってからは、頻繁に電子メールやショートメッセージ、ソーシャル・ネットワーキング・サービスでやり取りを交わした。しかし、会うことはできない。おれが、数年来のどん底生活に陥っていたからだ。
島の土を踏むことも夕香里にはずっと禁止されていたのだが、受験を控える瑠奈に移動の負担を強いないという名目で、六年ぶりの来島が許された。
(「壱の4.島のおばちゃん」に続く)