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イルカの子、クジラの子  作者: 守尾八十八
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弐の7.祈りのような決意

 東京に戻り少し経って、夜遅くに夕香里から電話があった。おれは寝ていた。電話口の夕香里は、涙声だ。

〈瑠奈の母子手帳を見てて分かった。今まで見方が分からなかったから、気にしてなかった。学校の授業で習って初めて理解できた〉

 そんなようなことを言っていたが、おれは起き抜けだったからよく覚えていない。

〈生まれた日に、大量の酸素吸入を受けてる。通常じゃ考えられないほどの単位で。あの病院、小児科の当直医がいないんだよ。小児集中治療室もないんだよ。一歩間違ってれば、瑠奈はここにいなかったかもしれない。あした目が覚めたら、瑠奈がいなくなってるんじゃないかって怖い〉

「瑠奈はどうしてる」

 夕香里の話を聴き続けるより早く眠りに戻りたかった。

〈寝てる。このまま起きないんじゃないかって不安なの。さっきから何回も、呼吸を確かめたり脈を取ったり、心臓の音を聴いたりしてる〉

「父ちゃんも母ちゃんもいるんだろ」

 当時の夕香里は、島の両親の家で暮らし、昼間は両親に瑠奈を預け看護学校に通っていた。

〈あした夕香里が目を覚ましたら、本当は長い長い夢を見ていて、瑠奈なんて生まれてきてなくて、瑠奈を身ごもったのも産んだのも育てたのも全部全部が夢で、瑠奈の顔も姿も幻で、瑠奈との思い出も作り事で、だから瑠奈もいなくて、瑠奈の写真もおもちゃも服もなにもなくて、夕香里は頭がおかしくなったと思われて入院させられて、それでもどこかに瑠奈がいるはずだって探し回って、本当に頭がおかしくなって瑠奈の名前を呼びながら死んでいくんだよお〉

 この時も、おれは夕香里の心情を全くくみ取れなかった。精神が不安定になっているのだとは感じた。しかし、夕香里が思いがけず知ってしまった、瑠奈が直面していた生命の危機に、おれは思いを至らせることができなかった

 夕香里は、自分に言い聴かせるかのように声を絞り出した。

〈瑠奈は、夕香里がしっかり育てるからね。瑠奈のために、瑠奈がちゃんと大きくなれるように、病気もけがもさせないように、命懸けで守るからね。病気をしてもけがをしても困ったことがあっても助けてあげられるように、頑張って立派な看護師になるからね〉

「分かった分かった、おまえがいればなんも心配いらん」

 生命の危機にひんしていた一人娘を思う、しかも、その危機をそれまでだれからも知らされていなかった母親の激しい動揺と祈りのような決意を、おれは、翌日の仕事のために睡眠時間を確保したいというくだらない理由で軽くあしらった。

 後に、一切の連絡をしてくるなと夕香里に言われるようになるのは当然の帰結だ。


 おれは、夕香里と瑠奈が身近にいることがあまりにも当然のこと過ぎて、いつの間にか、そのありがたみをを忘れてしまっていた。二人がいることを、だれにも感謝しなくなった。瑠奈を育てる夕香里にも、夕香里と瑠奈のことでおれを信頼してくれているであろう夕香里の両親にも、なにかの目に見えない神のような存在に対しても、謙虚さを失っていた。

 夕香里が瑠奈を連れて家を出た時、夕香里の目指す看護師の資格が取れたら二人とも戻ってくるだろうと楽観視していた。仙台での勤務を終えて東京に帰れば、全てが解決するだろうとも考えた。

 そして、おれの欠陥だらけの思考回路は、別居すれば何年にもわたって瑠奈の成長を身近で見守れなくなり、そのことで、おれの人生における大切な時間が脱落してしまうというあまりにも当たり前なことに気付いていなかった。三歳で出ていった瑠奈はなん年経っても三歳のまま帰ってくるという、とんちんかんな思い違いがおれの脳を支配していた。

 それは、別居状態から正式な離婚に移行する際も変わらなかった。いつでもやり直せる、いつからだって仕切り直せる、三歳の瑠奈にも四歳の瑠奈にも五歳の瑠奈にもいつだって会える、人生は巻き戻せると、現実にはありえないおかしな妄想に惑わされていた。

 現実逃避していたのだろう。夕香里と瑠奈を失うという事の重大さを認めたくない狂ったおれは、見ないふり、聴こえないふりをしていた。


 扶養家族がいなくなるから、離婚したことは会社の総務にすぐに伝えた。結婚指輪はサイズが合わなくなり、離婚するずっと前から外していた。夕香里と瑠奈が家を出て別居することになった時と同様、緑色の罫線の用紙にサインして判を押す際も気分の乱れはさほど大きくなかった。

 ところが、おれはだんだんと心と体をむしばまれていった。新聞記者にとってA級戦犯並みの重罪である、特落ちを連発した。

〈うちだけ載ってません〉

 泊まり勤務の記者から早朝、落とした記事の出所を担当するおれのところに電話がかかってくる。仕事はきちんとこなしているつもりだから、なぜ落としてしまったのか不思議でならない。

 太ったりやせたりした。いつ最後に飯を食ったのか分からなくなった。全く腹が減らなかった。なのに、いくらでも食べられる。酒を飲みたいわけでもないのに、いくらでも飲める。いくら飲んでも酔わなくなった。

「飲みに行くか」

「きょうはちょっと」

 後輩が、誘いに乗らなくなった。

 それらが、離婚に起因するものなのか別の理由があるのか、当時のおれには分からなかった。

 いつからおかしくなったのかも、思い出せない。気が付いたらおかしくなっていた。おかしいと気が付いたのは、離婚してずっと後になってからのことだ。

 それでも、年に一度、瑠奈に会えることだけを楽しみに働いた。年に一度だけというのは夕香里に提示されていた条件だし、それを超えることはおれにとって金銭的にも仕事の段取りの面からも困難という実情があった。


(「弐の8.心の風邪」に続く)

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