弐の6.知らない人に任せられない
身寄りのない土地で、当てにならない夫には頼らず母と幼い娘で生きるすべを、夕香里は獲得したかのように見えた。ほとんど一人で育児に当たらなければならない夕香里の心細さを、おれはだんだんと忘れていった。
だから、島からでは東京よりずっと遠い仙台の取材拠点に、職位を上げるための栄転が決まった際も、夕香里の心中を推し量ることができなかった。
辛うじて細い糸で結ばれている近所の母親連中とのネットワークから抜け、知る人のいない縁もゆかりもない土地でまた一からやり直さなければならない夕香里の心情を、おれはなんとも思わなかった。東京よりさらに寒くて水の冷たい東北の冬に夕香里が不安を募らせていることも、気にならなかった。
夕香里からの連絡を受けた時、おれは、取材先の官庁幹部宅に上がり込み、サシで酒を飲んでいた。おれたち家族三人は、仙台に越してまだ日が浅かった。
〈瑠奈がテーブルチェアから真っ逆さまに落ちて、床で頭を打ったみたい〉
携帯電話の受信に気付きコールバックすると、こんな内容のことを言われた。瑠奈はまだ二歳になっていなかったはずだ。おれは酔っていたせいもあり、夕香里の言うことがぴんと来ない。夕香里も、気が動転したためであろう、うまく状況を説明できない。
赴任先で会社から当てがわれた築年数の古いマンションは、キッチンの床が、コンクリートの上に薄いクッションシートのような物を敷き詰めただけの粗雑な作りだった。大人が使うテーブルの高さから一歳か二歳の子どもが転落してその床に頭を打ちつけたのだとすれば、極めて憂慮するべき事態だ。
〈帰れないの?〉
「すまんな、帰れない。夜間救急に電話してみろ。救急車を呼んでもいいぞ」
酒席の相手に悟られぬよう、おれはトイレに立つふりをして電話のやり取りをした。官庁幹部は東京に家族を残し単身で仙台に赴任しており、おれが上がり込んでいたのは市内の官舎だ。家族持ち用の広い官舎に、その幹部は一人で暮らしていた。
娘がけがをしたらしいから今夜はこれでおいとまするという無礼がその幹部に通用したかどうか、後になって考えてみても判断が付かない。その時のおれには、できなかった。帰ると言えば幹部が不機嫌になるのは目に見えているからだ。
幹部は仕事が終わってから暇を持て余していた。夜の街に頻繫に出入りすることが難しい職責にあった。その上、家族がそばにいないから人恋しいのがおれには分かっていた。夕香里の心細さには気を回せず、おれの人生にとってどうでもいい存在のはずの取材先幹部の機嫌を取ることに、おれは腐心していた。
情報源のキーパーソンであり、ようやく取り入ることができたこの幹部との蜜月関係をほごにしてでも、おれは帰るべきだった。どうせじきに職を失うことになるのだから。
夕香里から何度も電話が入る。
〈救急病院に電話してみた。吐いたりしてないか、視線は合うかって聴かれた。今のところ吐いてない。視線なんて分からないよ。ねえ、帰ってこれないの?〉
「おまえに分からんことは、おれでも分からん。病院に連れてって、脳波とか測ってもらえ。MRIでもCTスキャンでも、救急病院ならあるだろ」
切ってもすぐにかかってくる。
〈ネットで調べてるんだけど、いろんなのが出てきて、どれが本当なのか混乱してるの。お願い、帰ってきて〉
「おれが帰ったって状況はなんも変わらんじゃないか。おまえが付いていれば大丈夫だ。救急車を呼んでいいってさっき言ったろ。そうだ、おれの名刺を持っていけ。救急隊員にも医者にも、それ見せろ」
おれは、社会をなめていた。うぬぼれていた。東京から来た新聞記者というステイタスに陶酔していた。自分は高尚な仕事をしており、なにをしても許されると誤解していた。傲慢だった。そして、あろうことか、世界で一番目と二番目に大切にしなければならない夕香里と瑠奈に対してさえ、空虚で危険な価値観を押し付けていた。
幹部が酔って寝たので、おれは、会社から支給されているタクシーチケットを使って帰宅した。日付けはとうに変わっている。夕香里は起きていた。瑠奈は寝ていた。
「病院、行かなかったのか」
「行ってない」
「どうして」
「瑠奈のことを知らない人に瑠奈を任せられないと思った。任せるのが怖かった」
「なんでこんなところから落ちた」
「こっちの部屋にいて、目を離してた。どうやって落ちたのか分からない。見てなかった」
「なんで見てない。なんで目を離す」
「今さら言ってどうするのよ。そんなこと問題じゃないでしょ」
夕香里は号泣しだした。おれが帰宅する前にも泣いたはずだ。帰宅した時から鼻声だった。電話では気付かなかった。
ずっと後になって、この晩の一件が別居と離婚に向けた最大の引き金になったと、夕香里から直接聴かされた。
「瑠奈の様子がおかしいのか普段と変わらないのか、一緒に見てほしかった。一緒に確かめてほしかった。瑠奈のことを知ってる人はほかにだれもいないから」
夕香里がそう思うのも、別居や離婚を決めたのも、極めてまっとうなことだ。
夕香里と瑠奈が出ていったのは、仙台で勤務していたころのことだ。おれは目算通り二年で東京に呼び戻された。赴任する時は三人だったのに、帰任する時は一人だった。
(「弐の7.祈りのような決意」に続く)




