弐の5.ぬくぬくと過ごしたかった
秋が深まったころ、おれは往復のための二日間のみの休みを取り、夕香里と瑠奈を迎えに島に渡った。三カ月ぶりに生で見る瑠奈は、丸々と太っている。肌がつややかになっている。首が据わっている。下にきょうだいのいない夕香里の弟に、かわいがられていた。
義弟が、慣れた手つきで、見方によっては乱暴に、おれの目の前で瑠奈をひょいひょいと抱いたり降ろしたり寝ている瑠奈の首の角度を直したりするから、瑠奈がけがでもするんじゃないか、この三カ月もこんな調子だったのだろうかと、おれは心中穏やかでなかった。
慣れないおれが抱いても、瑠奈は泣かない。小さな手で、おれの空いている手の指を握る。不思議そうな顔で、おれをじっと見上げる。クーイングと呼ばれる乳児独特の発声で、おれになにかを訴えているようだ。
「パパのことが分かるのかねえ」
夕香里の母親が言った。そんなの当たり前じゃないですかと、婿のおれは主張したかった。
島から羽田までの空路は、ずっと夕香里が瑠奈を抱いていた。機内で瑠奈は、眠ったり目を覚ましたりしたが、まったく泣かなかった。おれも夕香里も飛行機の気圧の変化に弱いから心配したが、瑠奈はお利口だった。
羽田空港到着ロビーの女性用トイレで夕香里が瑠奈のおむつを替え授乳し、おれに瑠奈を託し自分の用を足しにトイレに戻った。
「座ってください」
瑠奈を抱いて立っていると、若い男から声を掛けられた。若者は、ずっと離れた場所にあるベンチまでおれと瑠奈を誘導した。
「男の子ですか、女の子ですか」
「娘です。女房のお腹に大事なものを忘れてきたみたいで」
「ぼくも早く子どもが欲しいなあ。結婚もしてないんですけどね。彼女さえいないんですけどね」
若者は、ベンチに自分の大きな荷物を置いて席を一人分確保してくれていた。夕香里がこの場所を見つけられるか、おれは心配になった。
「ぼく、見てたんで奥さんの顔、分かります。さっきの場所で待ってて、案内してきます」
大きな荷物を床に置いたまま、若者はおれが瑠奈を抱いて立っていた場所に走った。おれは、父親になったのだと改めて実感した。社会から父親と認められたと思った。考えてみれば、瑠奈と一緒に屋外に出たのは、その日が初めてだ。
程なく若者は夕香里を連れてきた。今度は代わりにおれが用を足しに行った。若者から譲られた席には、瑠奈を抱く夕香里が座った。
トイレから戻ると、若者は姿を消していた。大きな荷物もない。
「礼には及びませんとか言って、どっか行っちゃったよ」
瑠奈を腕に、座ったままの夕香里が言う。
「そうか」
「なんかことわざみたいなこと言ってたけど、分からなかった。自分も人から親切にされたことがあるからとか、子どもを持ったらあなたたちのような夫婦になりたいとか」
「『情けは人のためならず』か」
「違うなあ。それだったら夕香里でも知ってる」
「『恩送り』か」
「そう、それだ」
「あの青年、まだどっかでおれたちのことこっそり見てるかもな。おまえが転んで瑠奈を落っことしでもしたら助けに駆け付けようとか思ってさ」
東京の市部にある自宅アパートまで、タクシーで帰った。車内では、おれがずっと瑠奈を抱いていた。やはり瑠奈は寝たり起きたりを繰り返したが、まったく泣かない。
夕香里にとっては五カ月ぶり、瑠奈にとっては生まれて初めてのわが家だ。ベビーベッドもベッドの上でくるくる回り音楽を奏でるオルゴールのような電池式の玩具も、必要な物は、夕香里が島に帰る前に二人で選んでそろえておいた。
和室の壁際に据えたベビーベッドは、側面のさくが、ちょうつがい式で下ろせる。夕香里は着替えもせぬまま瑠奈に授乳し、背中をとんとんたたいてげっぷを出させた。そして、さくを下ろしたベッド側面から瑠奈を、壁側を頭にして寝かせたかと思うと、上半身を瑠奈に覆いかぶせるようにして泣きだした。
「夕香里、瑠奈を一人で育てられないよ」
緊張の糸が切れたようだ。
「なに言ってるんだ。おれがいるじゃないか」
「あんた、全然、帰ってこないじゃない」
島には両親がいる。母親は、夕香里たち四人きょうだいを立派に育て上げた育児のベテランだ。面倒見のいい弟もいる。近所には、親戚も友だちもいる。しかし、東京近辺には身寄りがない。おれの親戚さえいない。
新聞記者だったおれは、仕事とその付き合いとプライベートとの境目のない生活をしていた。結婚してからも、夕香里が懐妊してからも、そんな生活を改めなかった。新聞記者とはそういうものだと思っていた。無意識のうちに、夕香里に同じ価値観を刷り込んでいた。家庭を顧みないことが美徳の新聞記者の妻という重責を強いた。
「ずっと島にいたかった。ぬくぬくと過ごしたかった」
「言ってくれればもう少しあっちにいてもよかったのに」
「母ちゃんが、帰ってあげなさいって。あんたが瑠奈に会いたがってるって」
夕香里とは島で知り合ったのだから、おれが島に残る努力をするべきだったのかもしれない。島には本土資本の新聞社の印刷工場がなく、東京や福岡から空輸しても配達が半日遅れになるため、二つある地元紙が強固な地盤を築いている。おれは、いずれの地元新聞社の採用試験も受けなかった。学生時代を過ごした第二の故郷であるはずの島に、大した思い入れがなかった。広いエリアを取材対象に働きたかった。
瑠奈の胴の横に埋めたままの顔を、夕香里は上げない。瑠奈は、手足をばたばた動かして機嫌がいい。母親が泣いている理由を知らず、泣いていることさえ理解できていない。
夕香里は社交性が豊かだから、瑠奈と同じくらいの月齢、年齢の子を持つ近所の母親と、すぐに友だちになれた。島の出身だと臆せずアピールし、そのことでかえって好感を持たれていたようだ。友だち同士、頻繁に行き来していて、就業時間に不規則なおれが家で寝ている平日の昼間にも来訪者があった。
「ごめんなさい。今、旦那が寝てるの」
そう言って親子集団を追い返したことがある。追い返した後、集団の中の誰かの家に、夕香里は瑠奈を連れて出掛けていった。
(「弐の6.知らない人に任せられない」に続く)




