弐の4.父親としての予感
《ルナです よろしく》
面会時間が始まるのを待っていたその朝、カーテンが開いておれの目に最初に飛び込んできたのは、瑠奈のベッドのさくに貼り付けられた、名刺大の色の着いたカードだ。文字は夕香里の筆跡ではない。
新生児のいくつかのベッドに同じような自己紹介のカードが貼ってあることは、前日までに気付いていた。母親なり家族のだれかなりが書いた物を、病院スタッフに頼んで貼ってもらっているのだろうと思っていた。
夕香里が心配したという取り違えを防止するため病院は、二重のチェック体制を敷いている。新生児の足首には名前を記した輪が巻かれ、足の裏には無害なインクで肌に直接数字が記されている。だから、取り違え防止のためすでに万全を尽くしている病院スタッフの都合でカードが貼られているわけではないことは明らかだ。
「書いてもらったのか」
授乳のため新生児室に連れて来られた夕香里に尋ねてみた。
二人部屋の病室には別の母親がいるから、おれは入室をなるべく控えた。同室者も、他人の夫の顔など見たくなかろう、分娩直後でやつれたノーメイクの顔や病院着姿を見られたくもなかろうと推し量った。
禁じられているわけではないはずだが、面会室にも夕香里は出てこない。夕香里と顔を合わせて話ができるのは、授乳前に看護師が授乳室の準備をしている時と、授乳後、夕香里が病室に戻るまでの短い間だけだ。
「書いてもらったよ。みんなに瑠奈を知ってもらいたいから。瑠奈のことを自慢したいから」
「片仮名なのはそのためだな。だれにでも読めるようにっていう」
「そっ。当ったり前じゃん」
瑠奈にメロメロなのは、おれだけではなかった。
新生児室の前には、赤ん坊の親族らしい老若男女が入れ代わり立ち代わり訪れる。父親であろう、おれと同年代の男の姿もあったが、おれのように一日中張り付く者はいない。夕香里が看護師に笑われたというのも無理のないことだとおれは思った。
夕香里の母方の祖父母も来た。祖父母にとっても夕香里が初孫で、瑠奈は初ひ孫に当たると聴かされていた。おれは、瑠奈の誕生で夕香里の両親や祖父母に対し面目が立った思いがした。そして、瑠奈はきっと、祖父母や曽祖父母に愛されて育つのだろうと確信した。
島の高校に通う、末っ子長男の夕香里の弟も来た。バイクのヘルメットを小脇に抱えている。成長期の弟は、いつの間にかおれの身長を追い越していた。
「叔父さんになった気分はどうだ」
「うん」
「兄々って呼ばせてもいいぞ」
「うん」
「『サザエさん』の弟のカツオくんのようなもんだな」
「うん」
「タラちゃんみたいにかわいがってくれよ」
「うん」
ガラス越しの瑠奈を義弟はじっと見ている。めいがかわいいのか、その存在に現実味がわかず気持ちの整理が追いつかないのか、おれの話など聴いてもいないようだ。
夕香里の上の妹は島を出て福岡で働いていた。下の妹は、国を出てハワイで勉強していた。仲の良い四人きょうだいは、それぞればらばらの土地で暮らしていた。
生まれたばかりで首も据わっていないというのに、うつぶせ寝の瑠奈は、顔の向きを右から左へ、左から右へ、変えることができた。観察していると周りの新生児もそうだったから、それ自体は特別なことではないようだ。
だれに話しても一笑に付されるのでだれにも言うのをやめたことがある。ガラス越しに頭上から瑠奈をのぞいていたら、もぞもぞと体を動かし、顔の向きを変えようとしているようだった。何度も試みて顔の向きの変更に成功した瞬間、瑠奈は、頭上のおれと目が合った。そして笑った。なんだ、いたの、気付かなかったよ、とでも言うかのように。
「それは、新生児微笑っていうんだ。反射的なもので、感情を伴ってはいない。うれしいとか楽しいとかで笑ってるんじゃないよ」
したり顔でこんなくだらぬ弁舌をふるう、風情の分からぬ、父と娘の絆を解せない仕事仲間が多勢だった。だが、おれは、瑠奈がおれを認識して笑ってくれたのだとずっと信じている。夕香里の腹から首を絞めつけられながら生まれ出てきて驚いたような顔をした時も、父親であるおれの顔が見えていたはずだと思っている。
瑠奈ともしばらくお別れしなければならない休暇最後の日、まだ入院中だった夕香里は、沐浴指導を受けるスケジュールが組まれていた。夕香里が瑠奈の体を初めて洗う。病院は、おれにも参加を勧めた。
分娩の立ち会いでもそうだったように、病院は母親の周産期に父親を積極的に介在させることを是としていた。遠方で暮らすおれにその機会はなかったが、妊娠初期や中期に夫婦で出席する新米パパ・ママ教室のような催しも開かれていたようだ。
島に滞在する最後の日に瑠奈に触れておきたいとおれは思い、夕香里に付き添うことにした。しかし、結局おれは、瑠奈を沐浴させることはできなかった。うまく抱けずに手を滑らせ、湯を張ったシンクに落下させてしまいそうで怖かった。
羽衣のような布を首から下に掛けられ、いつもと違う環境に恐怖を感じているのか大泣きしている瑠奈の体のあちこちを、看護師が小さなガーゼを使い手慣れた様子で優しく洗う。夕香里がそれに倣う。臆病なおれは手が出せない。夕香里は慣れない作業で汗だくだ。
この先も瑠奈に父親らしいことはしてやれないのではないかという、後になって振り返ればかなり正鵠を射ていた不吉な予感を少しだけ覚え、おれは島を後にした。持参していたビデオカメラは、退院後の瑠奈の様子を記録に残せるよう、夕香里の実家に預けた。
(「弐の5.ぬくぬくと過ごしたかった」に続く)




