弐の3.薄い雲に隠れる
瑠奈がこの世に生を受けたのは、夏の晩の八時過ぎだ。日付けが変わる前に、夕香里が車いすに乗せられ分娩室前に連れてこられた。意識ははっきりしているようだ。
「お父さんとお母さんだけにしてください」
付き添いの女性スタッフに夕香里の両親はシャットアウトされ、おれと車いすの夕香里だけが、分娩室に隣接する小部屋に通された。照明は暗い。小さなベッドの上で、瑠奈が子ネコのようなか細い泣き声を上げていた。
「立派な赤ちゃんだよ。きれいな赤ちゃんだよ」
ずっと小部屋にいたらしい年配の女性スタッフはそう言ったが、医療用キャップからはみ出た前髪は、汗で濡れべったり額に貼り付いている。なにかと格闘したであろうことがうかがえた。
おれと車いすの夕香里は、交代で、初めて瑠奈を抱いた。重くて軽かった。軽くて重かった。あの時の重みを、おれは生涯忘れない。
親になったばかりのおれたちは短時間で小部屋から追い出された。夕香里は、もともと決まっていた二人部屋の病室に入った。夕香里の両親は、初孫を抱けないまま帰された。おれも宿に戻った。
空には、薄い雲に隠れるように半月が浮かんでいた。
「へその緒で首が絞められて、出てこられなかったらしいよ。出ようとすればするほど首が絞めつけられて、それで呼吸もできなかったんだって。だから、ずっと酸素吸入を受けてたんだね」
翌日には、夕香里は元気になっていた。あっけらかんとしている。立ち歩くこともできた。母乳がまだ出ないながらも、瑠奈に乳首を吸わせたという。瑠奈に、健康上の問題はなかった。
瑠奈が逆さづりにされていた理由は、分からないままだ。夕香里にも尋ねなかった。夕香里はなにも言わないから、逆さづりの場面を見てもいなかったかもしれない。
「お腹が急にへこんで不思議な感じ」
夕香里本人が言うように、おれにとっても腹の大きくない夕香里を見るのは久しぶりだから、新鮮な気持ちがする。
病院の新生児室はガラス張りで、廊下から大きなガラス越しに十人ほどいた新生児を見渡すことができる。ガラス寄りの外から見やすい場所に、低いさくの囲いがそれぞれにある小さなベッドが並べられ、新生児はそこに米国式のうつぶせで寝かされている。おれは、病院の面会時間が始まり新生児室のガラスの向こうのカーテンが開いてから面会時間が終了しカーテンが閉まるまでの日中、ずっとガラス越しに瑠奈を眺めていた。
もぞもぞと動いたり、ぐっすり寝ているようでたまにぴくんと体を動かしたりする瑠奈は、いくら見ていても飽きない。
ビデオカメラを持参していた。動く瑠奈を長時間撮影し、寝ている瑠奈を、やはり長時間撮影した。
一日に何度か夕香里が看護師に伴われ、授乳のために、新生児室の奥にある授乳室に来た。
「あんたねえ、看護師さんから笑われたよ。パパは瑠奈ちゃんにメロメロですねって」
看護師が先に新生児室に入って奥の授乳室の準備をしている間に、夕香里があきれたような口調で言った。
「そうか、褒められたんだな。良かった良かった」
数日後には島を離れなければならないおれの事情を、看護師は知らないのであろうとおれは思った。
夕香里を連れてきた看護師がガラス越しにおれにほほ笑み、慣れた手つきで瑠奈を抱き上げ奥の授乳室に連れて行く。しばらくすると、同じ看護師が瑠奈を抱いて戻ってくる。夕香里も授乳室から出てきた。
「赤ちゃんの取り違え事件とかあるじゃん。あんなことになったらどうしようって心配だったんだけど、絶対に間違えないよ。うちの瑠奈が一番かわいい」
おれの耳元で、ひそひそ話をするように夕香里が小声で言った。
「そうだな、おれに似たから」
夕香里は院のスリッパつま先で、ハーフパンツから肌が露出したおれのすねを蹴った。
(「弐の4.父親としての予感」に続く)




