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イルカの子、クジラの子  作者: 守尾八十八
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弐の2.産声を上げない

 陣痛の間隔が短くなったから病院に連れて行くと夕香里の父親から連絡を受け、宿にいたおれも病院に向かった。夜になっている。そこからが長かった。子宮口が開いているというのに、胎児は降りてこない。

「薬を入れましょう」

 医師なのか助産師なのか看護師なのかよく分からない女性スタッフが、分娩に立ち会うためベッドに付きっきりのおれに何度か言った。なんの薬なのか分からない。どこからどこにどうやって入れるのか、実際に入れたのかも分からない。

 点滴を受けながら、夕香里は苦しんでいる。時間の経過とともに、苦しみ方が激しくなっていく。女性スタッフが呼び掛けるひいひいふうの呼吸法にも、夕香里はタイミングを合わせられない。


 苦しみ方が頂点に達し、夕香里は分娩台に移された。前の晩に病院に到着して、丸一日が経っていた。

 二畳ほどの広さの小部屋でおれは消毒のミストをシャワーのような装置から体中に浴びせられ、緑色で後ろ開きの医療用ガウンのようなものを羽織らされ、夕香里の頭上から夕香里を見下ろす位置に立つよう指示された。

 初めて見る光景だから、なにが行われているのかまったく分からない。おれのものより濃い緑色の服を着た大勢の女性スタッフが、分娩台の周りをせわしく行ったり来たりしている。金属の医療器具が、かちゃかちゃと音を立てる。

 おれの正面の扉が開き、大柄で白人の中年男が現れた。この白人の男が医師だった。

 医師はすぐに、鉗子を持ち出した。両脚を高い位置で開いている夕香里の腹の下で医師は、はっとかふっとか声を上げるので、酒に酔ってでもいるのではないかとおれは気をもんだ。

 やがて、鉗子で頭を挟まれた瑠奈が、夕香里の腹から出てきた。瑠奈は産声を上げなかった。目は開いている。驚いたような顔をしている。首にへその緒が巻き付いているのが、素人のおれにも分かった。

「お父さん、こちらへ。早く」

 女性スタッフにせかされ、おれは分娩台の横に移り、ゴムかビニールの手袋を右手だけはめさせられ医療用のはさみを持たされた。分娩台の夕香里の向こう側の医師が、まだ夕香里と瑠奈の間でつながったままのへその緒を両手で右から左まで二十センチほどの長さ分つまみ、おれの前に差し出した。無影灯に照らされたへその緒は、紫色に見える。赤い血にまみれている。

 ここでいいのかという意味合いでおれは左手人さし指でその中間辺りを指さしたのだが、医師は、おれが素手でへその緒を触ろうとしているとでも誤解したのか、「ノー」と大声を張り上げ、へその緒をつまむ両手を引っ込めた。

 改めて差し出されたへその緒を、おれは、はさみで切断した。ぐにゃりとした抵抗感が、指先に伝わった。

 女性スタッフが、瑠奈の足首をつかんで逆さづりにした。瑠奈は、逆さづりのままどこかに連れて行かれてしまった。

 白人医師は、入ってきた扉から出ていった。せわしく行ったり来たりしている女性スタッフからは、なんの説明もない。

「大丈夫です。安心してください」

 尋ねても、みな同じ回答しかしない。答えにならない答えを残し、すぐにいなくなる。大丈夫ではなく、安心できる状況でもないことは明らかだ。

 夕香里は、分娩台からキャスター付きのストレッチャーに移された。

「お父さん、先に出てください」

 強い口調で言われ、おれはガウンを着けたまま分娩室を出た。すぐ外で、夕香里の両親がそろっておろおそしている。瑠奈が逆さづりで連れて行かれるのを見たようだ。

「どうしたのかね。なにがあったのかね」

 夕香里の父親は詰問するが、おれはなにも答えられない。なにも分からない。だれにもなにも教えてもらえなかった。

「夕香里はこれから出てきます」

 おれは、夕香里がストレッチャーに移されたことを両親に伝えようとした。そうしようとしている間に分娩室の扉が開き、夕香里を載せたストレッチャーが滑り出てきた。扉は人の手ではなくストレッチャーをぶつけて開けたようだ。ストレッチャーの縁と扉のぶつかる音が聴こえた。ストレッチャーの脚の下で回転する複数のキャスターがきゅるきゅるとうなり、その不快な音は廊下に響く。

「夕香里、大丈夫ね。返事しなさい、夕香里」

 夕香里の母親が、二人の女性スタッフの押すストレッチャー上の夕香里に叱りつけるように呼びかける。夕香里はなにも反応しない。おれと夕香里の両親は、ストレッチャーに付いていった。ストレッチャーは、スタッフのだれかが開けて待機していたエレベーターに吸い込まれた。おれたちは、エレベーターへの同乗を拒まれた。


 どこにいろとも言われなかった。いつまで待てとも言われなかった。明かりが付いたままの分娩室とその周りから、女性スタッフの姿が一人、また一人と消えていく。尋ねても、大丈夫です、安心してくださいのせりふしか返ってこない。

「どうなってるんだ。きみは見てたんだろ」

 夕香里の父親が怒るのも無理はない。

「ぼくにも分からないんです。赤ん坊は、産声を上げませんでした。首にへその緒が絡まっているように見えました。女の子でした」

 おれの説明にならない説明を聴きながら、夕香里の父親は、顔をあちらこちらに向け、なにかを思案しているようだ。何度も舌打ちをし、両腕を組んだり、両腕を組んだまま右手を口に当てたりを繰り返した。


 分娩室の前の廊下には長いすがある。夕香里の母親だけがうつむいて座り、おれと父親はずっと立っていた。おれは、羽織らされていた緑色のガウンを乱暴に脱いで丸めてボクシングのグローブのようにこぶしに巻いた。


(「弐の3.薄い雲に隠れる」に続く)

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