弐の1.水が冷たくて泣きそう
瑠奈の名前は、夕香里が付けた。
瑠奈が腹にいるころ、夕香里はよく部屋の窓際にいすを置いてカーテンを少しだけ開け、夜空の月を眺めていた。
「夕香里たちの子も、今ごろあの月を見てるんじゃないかなって気がする」
結婚して島を離れてからも夕香里は、おれや島の親族、友だち相手ではそれまで通り、一人称で自分の名前を使った。
「なんでそんな気がするんだよ」
おかしなことを言うもんだとおれは不思議だった。
コウノトリが運んでくるとか、赤ん坊が月の世界からこっちの様子をうかがっているとかならまだ分かる。だけど、夕香里の考えはそうじゃない。腹の中にいる子が、実は地球上のどこか別の場所で、母となる夕香里と同じように夜空の月を見ているというのだ。
「だって、島で里帰り出産でしょ。なんだか、島に行って夕香里たちの赤ちゃんをもらってくるような感じ」
外国のような遠い故郷に夕香里は思いをはせていたのに違いない。
夜、おれが仕事から帰宅すると、アパート二階の窓ががらがらと開き、月を見ていたらしい夕香里が手を振った。
「ただいま」
夕香里が言う。
「おかえり」
おれが答える。
帰宅しても出迎えの「おかえりなさい」のあいさつ一つしない夕香里におれは、あいさつはどうなってるんだ、おかえりくらい言ったらどうだという意味で、「おかえり」という短い皮肉を口にした。ところが夕香里は、おれのそのあてこすりを面白がって、本来とは逆のあいさつが定着した。
近所からおかしな夫婦だと思われるのではないかとおれは懸念したが、夕香里はそんなことなどまったく気にしていないようだった。
男の子だったらおれが、女の子だったら夕香里が名付けることにしていた。妊娠が分かり定期的に通うようになった都内のクリニックでも、分娩することにしている島の病院でも、夕香里は、腹の子の性別は教えないでくれと医師に頼んだ。生まれてからの楽しみにしようと、おれと夕香里とで決めていた。
夕香里は、生まれてくる子どもに向けてのメッセージを、硬い表紙と厚手の中紙のノートに、日記のように手書きでつづっていた。ある夜おれが仕事から帰宅した時、部屋の照明をともしたまま、夕香里はこたつで寝ていた。こたつ布団を首まで掛けよく寝ていて、起きる気配はない。こたつ板の上には、名付けに関する本や、子どもに向けたメッセージのノートが散乱している。おれは、ノートを開いてみた。
《水道の水が冷たくて泣きそうになったけど、きみがナチブーに育つといけないから泣かないで我慢したよ》
達筆とはとうてい言えないボールペン字で、島の言葉を交え書かれている。水を冷たがる自画像らしい漫画のようなイラストが添えられている。
泣き虫を意味する島の言葉を文面に使ったのは、未来の子に母方のルーツを忘れさせないための、夕香里なりの願いが込められているために違いない。
読んでいたおれがナチブーになった。涙で先が読めなかった。本土の冬の寒さを知らない夕香里を島から連れ出したことが、果たして正解だったのか。夕香里と、夕香里を送り出してくれた夕香里の両親に申し訳なく思った。
「やっぱり、国際社会で通用する名前がいいよね」
国際うんぬんする当の夕香里は、国内最大の米軍基地に土地の一五パーセントを押さえられ軍人とその家族、彼ら相手の商売人合わせて五万人の米国人が基地の内外にいる島で生まれ育ちながら、英語はまったくできない。
「ローマ神話に出てくる月の女神だって。ルナ。英語でも通じるでしょ。悪い意味はないよね。あるかないか調べといて。あんた、そういうの得意でしょ」
名付けの本を読みながら夕香里は、画数の研究にも余念がない。おれが考えた男の子の名前も、夕香里はいろいろなパターンの漢字を当てて、縁起の良い画数になるよう試みていた。
「男の子でも女の子でもどっちでもいいよね、たくさん産むんだから。でも、長女はやっぱりルナだな。かわいらしいし、賢く育ちそう」
夕香里はきっと良い母親になると、おれは信じた。ずぼらで抜けていて、決して良妻とは言えないが、賢母にはなれるだろうと思った。
腹が大きくなって、里帰り出産のため島に帰る夕香里を、羽田空港で見送った。夕香里は白い半そでポロシャツにマタニティ用の紺色ジャンパースカートを着けている。腹をかばい慎重な足取りで保安検査のゲートをくぐって搭乗待合室に向かう後ろ姿を、おれはずっと見ていたが、夕香里は姿が見えなくなるまで一度も振り返らなかった。
夏期休暇と有給休暇の合わせ技で、主産予定日の前後計十日の休みを会社に申請した。おれはまだ二十代で、職場では子を成すのは早い方だった。若くして父親になることを周囲から好意的に受け止められ、長期休暇は快く認められた。なによりも、外国のように遠い島に行かなければならないことが、私用での長い休みを認められた最大の要因だ。
夕香里もそこで生まれたという病院は、米国のキリスト教系の教団が、島の祖国復帰前から運営している。医療スタッフにも患者にも、島で暮らす米国人が多くいる。
二カ月ぶりに会う夕香里は、見事に腹を膨らませ立派な妊婦になっていた。
一緒に病院に行き、腹の中で動く胎児を超音波診断装置で見せてもらった。医師は日本人だったが、無口で、診察台に横になっている夕香里にもそばのいすに座らされているおれにも、大した説明をしない。
「性別が分かったかもしれない」
診察が終わって、軽装の服を直しながら夕香里が言った。
「看護師さんが、彼女って言ってた気がする」
「英語でか」
「日本語で」
「腹の中の赤ん坊のことを彼女なんて言い方するかね」
「じゃ、勘違いかも」
おれにとっては、どちらでもいいことだった。無事に生まれることだけを願った。
難産だった。
(「弐の2.産声を上げない」に続く)




