壱の21.地面にたたきつけたい
夕香里に言われた通り一日待ってから、おれは借りている車で中部エリアを目指した。ホテルはチェックアウトした。
ホテルを出る前、携帯電話で夕香里に、これから向かうとショートメッセージを打っておいた。夕香里は、了解したことと、仕事を休んでいるという内容の返信を送ってきた。
三人が住むアパートには、正午前に到着した。
瑠奈と話すのがおれは怖かった。会うのも怖かった。ひどい目に遭わされていたことを知らされ、なんと声を掛けてやればいいのか分からない。東京に連れ帰って、うまくやっていけるかどうかの不安もある。
しかし、比嘉が今も住むはずのこの島に瑠奈を置いておくわけにはいかないという強い思いだけは揺るがない。
アパートに着いても、おれは車を降りられなかった。あれこれためらった。
おれが車を降りる前に、103号室の玄関扉が開いた。夕香里が出てきた。あおいが出てきた。あおいは、まだクマの縫いぐるみを抱いている。瑠奈はこの日も最後まで出てこなかった。おれは車を降りて、玄関の前まで歩いた。
瑠奈とは血のつながった妹に当たるのだからと二日前はかわいく思ったあおいのことが、憎くてたまらない。おまえは悪魔の子どもだと思った。畜生の父と畜生の母から生まれた罪深い子なのだと、言って聴かせてやりたかった。抱いている縫いぐるみを、地面にたたきつけてやりたい衝動に駆られた。
「どうしたのよ、その顔」
夕香里がおれの顔をまじまじと見る。
「おまえには関係ない。おまえとは話したくない」
おれは、ずっと夕香里から視線をそらしていた。
大きなショルダーバッグを肩に掛け、瑠奈が出てきた。おれの顔を見て、はっと驚いた表情をした。青あざが残る両腕も見られた。おれのけがの原因が自分にあると感づいたようだ。でも、なにも言わない。「父さん」と呼んでもくれない。おれは、世界の不幸を背負わされた瑠奈がふびんでならない。
夕香里が瑠奈の両手首をそれぞれ自分の両手でつかみ、なにかを諭している。いつでも戻っておいでとかいった、そんなありきたりな内容だ。
両手首を揺すられる瑠奈は無表情だ。夕香里にもなにも言わない。ただ、時折うなずいている。
「姉々、どこ行くの」
ただならぬ雰囲気を、あおいも察したようだ。瑠奈はショルダーバックを玄関口の地面に置き、しゃがんで、あおいの体を縫いぐるみごと両腕で抱いた。
「姉々は遠くに行っちゃうんだ。あおい。母さんの言うことをよく聴いて、お利口さんでいてね」
この日初めて、瑠奈の声を聴いた。
「あおい。姉々に、お土産をおねだりしなさい」
夕香里が言った。
「なにがいい、あおい」
しゃがんであおいの体を抱いたままの瑠奈が、あおいの耳元でささやいた。
「ふうせん」
あおいは、少し考えてから答えた。
「風船だね。分かった、買ってくるよ」
瑠奈はあおいを抱いていた腕をほどき、立ち上がって腰を折り曲げ、あおいの頬を両手のひらで包んだ。瑠奈を見上げるあおいの唇が、ひよこのくちばしのようにとんがった。
「それじゃあね、あおい」
瑠奈は夕香里にはなにも言わず、おれより先におれの借りている車に向かった。
「瑠奈」
夕香里が声を掛けると、瑠奈は立ち止まった。
「ごめんね、瑠奈」
「うん」
瑠奈は振り返らない。夕香里は涙声だ。おれも瑠奈に続き、車に向かおうとした。夕香里に呼び止められた。
「お金がいる時は言って。瑠奈に銀行のキャッシュカード持たせてある。そこに振り込むから」
おれは、答えなかった。
「瑠奈のこと、よろしくお願いします」
夕香里は頭を下げたようだ。おれは見なかった。
後部座席のドアを開け、瑠奈のショルダーバッグを収めさせた。バッグを積み込むと、瑠奈は自分で助手席のドアを開け、乗り込んだ。そして、シートベルトを装着した。瑠奈は、手首をつかんで揺すぶられてから一度も夕香里の顔を見ていないようだ。おれも運転席に乗り込み、エンジンを再始動した。
「お別れのあいさつは、もういいか」
「うん」
正面を見据えたまま、瑠奈はうなずく。おれは車を発進させた。ルームミラーで後方を確認すると、夕香里とあおいが道路まで出てきているのが見える。あおいは片手で縫いぐるみを抱えたまま、もう片方の手を振っている。
瑠奈は一度も振り返らなかった。二人が道路に出てあおいが手を振っていることを、おれは瑠奈に伝えなかった。
細い道路は曲がりくねっており、ミラーから二人の姿はすぐに消えた。
(「壱の22.いんちき霊媒師」に続く)




