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イルカの子、クジラの子  作者: 守尾八十八
18/32

壱の18.二種免許いらない

 桜坂は、松山をしのぐ変貌を遂げていた。

 伝統的な映画館に続く、細い、それでも桜坂ではメインストリートだった路地が消えている。本当にここなのかと運転手に尋ねたら、何年も前に区画整理があったと教えられた。

 通りに以前の面影は全くない。二十年前にあった店の場所が、区画整理後のどこに当たるのかも見当がつかない。

 暗くて全貌はつかめないが、周囲に高層ビルがいくつも建っている。かつてはバラック建てのような店が軒を連ねるだけだった。あまり強くない照明で見える限りでは、古い構えの店と新築らしい建物の店が共存しているようだ。


 構えの古い、なんの電飾もない《ROSES》という看板を掲げる店の扉をおれは引き開けた。

 店は奥行きが狭く、カウンター席しかない。英国のロックバンド「クイーン」のボーカリストで、エイズで死んだフレディ・マーキュリーの若き日のような容貌と服装をしたバーテンダーが、驚いた顔を見せた。五人ほどしか座れないカウンター席には年配の先客が一人いて、扉のカウベルが聴こえたのかバーテンダーの驚く顔に反応したのか、振り向いておれを見た。見たが、表情を変えずなにも言わず、元の姿勢に戻った。


「一人?」

「うん。いいかな」

「どうぞ」

 痩身のフレディ・マーキュリーは右の手のひらを上に向け指をそろえ、先客の二つ隣の席を勧めてくれた。

「追われてるの」

「いいや、大丈夫だ。だれも来ない」

「救急箱、あるよ」

 のれんをくぐって店のバックヤードに入ろうとしたバーテンダーを、おれは止めた。

「いいんだ。それより氷をもらえないかな。冷やしたいんだ」

 バーテンダーは大きな氷の塊をアイスピックで器用に砕いて小さなラグビーボールのような形にし、おしぼりで巻いてくれた。頬に当てると、氷の冷たさが強烈におれの負傷部位の痛覚を刺激する。

「ごめんなさい、わたし頭が悪くて。お客さん、いつ最後にいらしてくれたかしら」

「たぶん初めてだ。気にしないでくれ」

 七〇年代か八〇年代のディスコミュージックを小さな音量で奏でる年代物のスピーカーは、真空管むき出しのアンプとつながっている。音源は見当たらない。店内のどこかから無線通信(ブルートゥース)で曲を飛ばしているのだろう。

 カウンターの向こうの棚には、各国の酒のボトルがずらりと並ぶ。先客は泡盛を飲んでいるようだ。

「バーボンはなにがある」

「手に入る物はたいがい置いてるよ。メニュー見る?」

「ブッカーズは」

「ある。出そうか」

「うん」

 バーテンダーは酒棚を一通り点検した後、バックヤードに入り、やたらと長い英文が表記された見慣れたラベルのブッカーズのボトルを持って出てきた。

「飲み方は」

「なにも入れないで。そのまま」

「これでいい?」

 小さなショットグラスを振って見せる。

「うん」

 慣れた手つきでろう封にナイフを入れる。

「あれ、さらなのか」

「心配しないで。飲んだ分しか取らないから」

「一見のおれが開けさせて悪いな」

「これ注文するお客さん、めったにいないのよ。置いてても宝の持ち腐れ」

 コルクを抜き、グラスにとくとくと注いで、おれの前まで片手でグラスを滑らせる。

「チェイサーは」

「うん、頼む」

 島独特のカルキを多く含む水道からくんだまずい硬水を出されるかとおれは思ったが、バーテンダーは、飲料水メーカーのミネラルウオーターを取り出した。ペットボトルを開栓する時にぱきっと音がしたから、水道水をくんで入れているわけではなさそうだ。

「強いのね」

 バーテンダーに言われて、グラスが空になっていることに気付いた。切れたらしい唇の端がひりひりしただけで、アルコールを摂取した感覚はない。

「うん。お代わり」


「どこでやられたの」

 二杯目のブッカーズを注ぎながら、バーテンが聴いてきた。

「松山」

「どうして」

「客引きともめた」

「ああ。しつこいからね」

「昔はあんな感じじゃなかったんだけどな」

「昔の松山を知ってるの」

「そんなに詳しいわけじゃないんだけどさ。運転代行のアルバイトをやってたんだ。松山の店によく出入りしてた。客の車の鍵を預かりにいって、駐車場から車を引き出して店の前まで持ってきて、また店まで客を迎えにいって。客に待たされると隅の席に座らされてウーロン茶なんか振る舞われたりしてさ。店が勝手に出してくれて、会計はまとめて客に請求するんだろうね。ビルの前に横付けしてる客の車は随伴車の相棒が見張ってるから取り締まられない」

「二種免許持ってるの。タクシーも運転できるんでしょ」

「持ってないよ。そのころはまだ二種免許なんていらなかったんだ。だから学生バイト同士でコンビを組まされてた。運転がうまくて地理に詳しくて、酔っぱらい相手に抵抗のない方が客の車を運転してた。たいていおれだった。今考えると恐ろしいね。二十歳そこらの免許取ったばかりの学生が客の命を預かるなんてさ。事故でも起こしたらどうなってたんだろうと思うよ」

「うちもよく来てもらってる代行さん、いるよ。なじみのお客さんには定額制でサービスしてくれるんだって。料金システムとかどうなってるの」

「今はどうやってるのか知らないけど、当時は客の車のトリップメーターをゼロに戻させてもらってた。そこからの走行距離でキロ計算だね。メーターをいじるなって客に言われたら随伴車のメーターをゼロに戻すところを客にちゃんと見てもらって、随伴車で計算してた。タクシーみたいな料金メーターを随伴車に装備してる本格的な業者もあったよ」

「この辺りにも来てた?」

「そうそう、話そうと思ってた。変わっちゃったね、桜坂。タクシー運転手に間違えて連れて来られたんじゃないかと思ったよ。そうだなあ、代行の客は少なかったかな。別のバイトの先輩に連れられて、何度か飲みに来たことはあるよ。映画を見た帰りに寄ることもあった」

「わたしも昔の桜坂は知らないのよ。お客さんによく聴かされるんだけど。どんな感じだった」

「そのお客さんから聴かされた通りなんじゃないかな。あんまり景気の良さそうな街じゃなかったよ。今でいうおかまバーみたいなのが多かった。男の人が女装してたり、客に抱き着いてきたり。先輩がそういうの好きだったんだ」

「今もあるよ、そういう店」

「なんだ、入る店、間違えちゃったかな」


(「壱の19.過ぎ去ってから分かる」に続く)

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