壱の17.一万円、一万円
「兄々、どこ行くね。なに探してるね」
黄色い紅型模様のかりゆしシャツを着た背の低いずんぐりとした男が、横にぴったり並んで付いてきた。おれは無視した。
「飲みね、遊びね」
遊びというのは女遊びのことであろうと思った。酒を飲むのが目的なのか、性風俗のサービスを求めているのかを見定めようとしているのだ。
おれは、酒を飲みたかった。喧騒に紛れてだれにも邪魔されずに酒を飲み、きょうあったことを振り返り、考え、そして忘れようとしていた。
だけど、あちらこちらのビルを行ったり来たりしているおれはこの男からは、懐具合と好みに合った性風俗の店を探しているようにでも見られたのに違いない。
この男に優先権があるのだろうか、歩道にあふれている客引きは、おれとおれに付いてくる男を無言でやりすごす。
「若い子がいるよ。大勢いるよ。みんな、美人顔だよ」
交差点を渡るために赤信号でおれは歩を止めた。肩が触れるほどぴったり横に付いている男を見下ろした。男は卑しい作り笑いを浮かべている。醜い顔だ。
「未成年の子もいるよ」
男が言った。瑠奈のことをおれは思い出した。おれの心がかき乱され表情が変わったのを、男は見逃さなかったようだ。獲物を射程に入れたハンターか肉食動物のような顔をした。舌なめずりしているようにさえ見える。
「ふうん、中学生もいるのか」
おれは、男に猶予を与えた。諦めて退散する道を用意してやったつもりだ。
しかし、男は誤算した。おれを捕らえたと勘違いした。おれの肩に手を掛け、背伸びするような姿勢で、耳元でささやく。
「いるよ。女子中学生。四十分で一万円だよ」
おれは男の手を払いのけその正面に回り込み、出っ張った腹を力任せに膝蹴りした。男は腹を押さえ前かがみになって、よろよろと二、三歩後ろに下がる。
「ぬうやるば」
驚いた表情で顔を上げた男の鼻頭を、おれはこぶしで思い切り殴った。何度も殴った。比嘉より先にまずこの男から殺してやろうと思った。タクシー運転手の安谷屋に自分が殺される前でよかったと神に感謝した。
「あがあ、あがあ」
男は両手と両膝を地面に突く。鼻血が地面にぼとぼと垂れる。
「日本語でしゃべれ、腐れ土人」
四つんばいの男の側頭部をおれはさらに蹴りつけた。
この島で生まれ育った男なら誰でも吹ける指笛の甲高い音が、あちこちで響く。伝令でもしているかのように、遠くからも聴こえる。おれは何人もの男に組み伏せられた。男たちがどこから来たのか、客引きの人間なのかそうでないのか、考える間もない。もみくちゃにされて、頭と腹を硬い靴で蹴られた。
どうなってもいいと思った。瑠奈の痛みに比べれば、こんなことは取るに足らない。瑠奈を救えなかったおれは、もっと痛めつけられるべきだ。
「島袋、やれ」
島袋と呼ばれたそのずんぐりとした男は、羽交い絞めにされたおれの顔面を殴り、短い脚で腹を蹴りつけてきた。
「殺さるんど、殺さるんど、殺さるんど」
雲助で原住民でこじきの安谷屋と同じように語彙に恵まれない土人の島袋は鼻血をだらだら流しながら、興奮した表情で同じ言葉を繰り返す。おれは、おれが殺そうとした腐れ土人から殺されるのだろうと観念した。
「パトカーが来たよお。警察だよお」
若い女の声だった。おれを羽交い絞めにしていたなに者かの腕が緩んだ。おれを取り囲んでいた男たちは、クモの子を散らすように去っていった。島袋も姿を消した。おれは、歩道にあおむけに倒れたまま取り残された。
そろってノースリーブの派手なドレスを着けた二十歳くらいの三人組が、客を見送った帰りであろうか、歓声を上げながらビルに入っていく。三人とも、やられたおれの姿を見て楽しんでいるようでさえある。
警察は来なかった。おれを助けてくれたのが、三人組のドレスの若い女だったのかどうか分からない。周囲の客引きたちはなにごともなかったかのように、仕事に精を出している。
女のいないところに行きたい――。
太宰治の小説『人間失格』で、主人公がそれに似たようなせりふを吐き父親の太鼓持ちに笑われるシーンがあったことを、おれは思い出した。主人公がその後、女のいないところに行けたかどうか忘れた。最後には精神病院に収容されたはずだ。
歩道上には、島袋のものかおれのものか分からない血痕がある。おれは立ち上がり、骨折がないことを全身を振って確かめた。一部始終を見ていたかもしれぬ付近のタクシー運転手からは、面倒ごとに巻き込まれることを避けるため乗車拒否されるのではないかと思い、松山の街の外れまで歩いてタクシーを拾った。
「桜坂」
行き先だけ告げた。殴られひどいありさまであろうおれの面相をルームミラーで確認したためか、運転手は安谷屋のような軽口をたたかない。おれはジーパンの尻のポケットからハンカチを取り出し、出血している鼻を押さえた。
(「壱の18.二種免許いらない」に続く)




