壱の16.歓楽街の明かり
瑠奈のことを考えていた。瑠奈が何度か気落ちしていた原因の全ては、比嘉から受けた卑劣な行為にまつわるものだったのだ。瑠奈はきっと自分でも意識しないまま、比嘉への憎悪の代償行為として、比嘉の血を引く異父妹のあおいを攻撃した。そして、あおいを標的にしている自分の愚かさをも憎んだ。
無線交信の傍受はだれも困らないから法に触れず野放しにされていることを知り、自分さえ我慢して犠牲になっていればだれも傷つかないと、深刻な犯罪被害を封印して納得しようとさえした。
おれは瑠奈を救えなかった。もっと早く救い出すべきだった。離婚した時、親権を主張しなければならなかった。どんなむちゃな方法を使ってでも、おれが引き取るのが義務だった。夕香里に渡すべきではなかった。後悔ばかりが頭を巡る。せめて、比嘉から性被害を受けたであろう直近のしばらくの間、瑠奈との連絡をもっと密にするべきだった。おれは気付いてやることができなかった。
「行く店は決まってるのかね」
運転手が両手でステアリングを握り前方を向いたまま、なにかをおれに話しかけているのだとようやく気付いた。おれはなにも答えない。車はのろのろと進んでいる。
「いい店、紹介するよ。どういうのが好みね」
ホテルから出てきたのを見られたから、島外からの来訪者だと悟られたようだ。運転手が店に客を連れていけばマージンが得られるのだろう。
「どこからね。島にはよく来るのかね」
無視して窓の外を見ていた。日付けが変わろうとしているのに、瑠奈とそう変わらない年格好の少年、少女がつるんで歩いている。日没が東京より一時間遅いことや、終電という概念がないことから、島では、人口が密集する市街地に限らず、大人も子どもも極端な夜型社会だ。おれは、瑠奈ほどつらい思いを強いられている子どもはあの中にはいないだろうと、ふざけてはしゃいでいる少女たちを眺めていた。なんの悩みもなさそうな少女たちの屈託のない笑顔が、心底から恨めしい。
「どうね。おじさんに任せてみんね」
運転手は、まだなにか言っている。
「うるさい。黙って運転してろ」
この車に乗り込んで二言目のせりふをおれは吐いた。
「あきさみよう。親切に教えてやろうとしてるばあてえ。なに、わじわじしてるか」
「黙って運転しろって言っただろ。行き先を変える。おまえの会社に向かえ」
おれは後部座席から身を乗り出し手を伸ばし、助手席前のダッシュボードに掲示されている乗務者証を引き抜いた。
「あい、ぬうやる」
「サウスウェスト交通の安谷屋啓勝だな。覚えたぞ。今から、おまえの会社の電話番号と場所を調べる」
携帯電話を取り出した。番号案内にかけてサウスウェスト交通の電話番号を聴き出すつもりだ。番号案内に登録がなければインターネットで検索する。
「うりひゃあ。お巡りさんを呼ぶよ」
「おう、ぜひとも呼んでくれ。それでなんの容疑だ。おまえはどんな被害に遭った。おれはなんという法令に抵触している。言ってみろ。答えられないだろ。法律を知らんだろ。この雲助。雲助って言われても、その意味さえ分からんな。めでたいこった。くそ原住民」
おれは思いつく限りのののりしを運転手の安谷屋に浴びせた。
「降りろ、愚者」
激高しだした安谷屋は急ブレーキで車を止め、手元の操作でおれが座る後部座席左側のドアを開けた。
「なぜだ。自分の会社に行くのが怖いのか。松山の店からせこい駄賃を恵んでもらってるからか。その正当性を主張できないからか。こじき野郎」
「貴様、殺さるんど」
「あ、明確な殺意を示したな。よし、警察に直行しろ。刑法一九九条だ。二二二条だ。刑務所で臭い飯を食ってこい」
「死なす」
「おれを殺したり死なせたりする前に、まずおまえの会社に行け。サウスウェスト交通の社長と話す。それでいいだろ、安谷屋。なんとか言ってみろよ」
タクシーのドアが開いたまま、おれは、めっきり語彙が乏しくなり壊れたおもちゃのように同じ単語ばかり繰り返す、雲助で原住民でこじきの運転手、安谷屋と言い争いを続けた。
「金はいらん。降りろ」
島ではタクシーが身近な乗り物で、運賃は同じ距離なら東京の半額ほどだ。だから、安谷屋のように副業に精を出す、本業での稼ぎの少ない運転手が多いのだろう。
料金メーターの表示は、七百五十円だ。おれは財布の中から千円札を一枚取り出し、丸めて、抜き取っていた乗務者証と一緒に助手席に放り投げた。車を降りると、安谷屋はドアを閉じそのまま車を発進させ行ってしまった。
狭くて流水の少ない川の橋の上だった。島随一の歓楽街である松山の明かりが目の前に見える。おれは安谷屋にまだ言い足りなかったことを頭の中で唱えながら、明かりに向かって歩いた。
街はにぎわっていた。
大学が立地し下宿もそこにあった中部エリアから離れていることと、高額な支払いを請求される高級飲食店ばかりであることから、学生時代は客としては縁のない街だった。ただ、アルバイトで、松山に限らず夜の街のいろいろな店に出入りしていたから土地勘はある。
松山は、だいぶ様変わりしていた。その最たるものが、客引きの多さだ。二十年前にはほとんど見かけなかった。それが、街を歩く客の数より多いのではないかと見まがうほど歩道にあふれている。
車の流れはさほど滞っていない。ところが、タクシーが止まり客が降りると、そこに客引きが群れをなす。
たいがいがカラフルなかりゆしシャツ姿だが、真夏の南国だというのに上下黒のスーツを着た集団もいる。客引きを規制する自治体の条例があるはずなのに、内容が薄いのか取り締まりが緩いのか、客引きは見込み客をどこまでもしつこく追尾している。
「飲み放題で三千円だよ。三千円」
「女の子が付いて五千円。女の子のドリンク代は取らないよ。五千円だよ」
呪文のように、耳のそばまで寄ってきてなにかの金額を繰り返す。
都内の例えば新宿・歌舞伎町で一人歩きしている際に、客引きにしつこく付きまとわれた経験はほとんどない。個人客よりも団体客を一気に引き込んだ方が、店内スペースの有効活用の面からもコストパフォーマンスが高いためだろう。だから、歌舞伎町で一人歩きの客が声を掛けられ連れて行かれるのは、ぼったくり目的など筋の悪い店と相場が決まっている。これまでおれはずっとそう認識していた。
ところが、二十年ぶりの松山では、団体連れであろうが一人歩きであろうがだれかれ構わず、手八丁口八丁の客引きがネオンきらめくビルに連れ込んでいる。東京でも、そのほか訪れたことのある全国どこの都市でも見ない光景だ。
客引きを無視し、おれは、学生時代にアルバイトで毎回わずかな時間だけ店内に入り込んで雰囲気を知っていた、いくつかの店を探した。バンドが生演奏するクラブがあったはず。古いジャズのアナログレコードを聴かせる店があったはず。寡黙なマスターが一人で切り盛りするバーがあったはず。
しかし、いつか客として訪れようと思っていたそんな店は、跡形もなく消えていた。店があったはずのビルのテナントでは代わりに、キャバクラのような店が営業している。扉の前に屈強な男が立っている店では、中をのぞけなかった。人の気配はするものの、看板を掲げず扉も施錠されたままのテナントもあった。
おれは、ビルからビルを渡り歩いた。その姿を見られていた。
(「壱の17.一万円、一万円」に続く)




