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イルカの子、クジラの子  作者: 守尾八十八
14/32

壱の14.手を振りどこかに連れて行かれる

 電子メールに添付されているファイルは重たかったようだ。発信者が何度か送信に失敗した形跡がある。


《重複していたら申し訳ありません》


 同じ断り文句が、同じ内容の複数のメールの文書冒頭につづられている。

 かび臭さにすぐ慣れたホテルのシングルルームにおれはいた。シャワーを浴びホテル備え付けの丈の短い浴衣に着替えた。館内の自動販売機で買った割高の缶ビールとつまみを開栓、開封したまま、どちらにもほとんど口も手も付けていない。

 持ち込んだノートパソコンを狭いデスク上で広げ、こちらの顔ばかり照らす役立たずの電気スタンドの下で、画面の縦書き文字をカーソルでなぞっていた。

 お金になりそうな、そして絶対にそうしなければならない仕事関係のメールが何通か届いている。差し当たって最重要視すべきメールの添付ファイルの中身は、近々上梓予定の単行本のゲラ刷りだ。都内にある零細出版社の編集者が送ってきた。日曜で編集者の職場は休みのはずのその日の昼間、瑠奈といた時間帯に着信した記録になっている。

 その会社と、出版に当たっての契約はまだ交わしていない。初版一万の刷り部数と本の定価、九パーセントの印税率という条件が口頭で提示されているだけだ。

 これまでに別の出版社から本を出した時もそうだった。契約書に判を押したのは、校了よりも後だった記憶がある。


 画面をスクロールさせながらおれは、字面が頭に入ってきていないことに気付いていた。瑠奈のことを考えていた。

 だから、ベッド上に放り投げていた携帯電話が告げたショートメッセージの着信も、瑠奈からだと思い飛びついた。

 液晶画面には、夕香里の名前が表示された。一切の連絡を絶つよう夕香里に言われた後、何度か機種を変えアドレス帳の追加、削除を繰り返していたから、代替わりした携帯端末がまだ夕香里の記憶をとどめその名を初めて表示したことに、おれは驚かされた。同時に、一方的に連絡遮断を通告してきた夕香里もおれへの通信手段を温存したままだったのだろうかと意外な思いがした。


《寝た?》


 メッセージはこれだけだ。瑠奈に焼き肉を食べさせた礼を言われるか、瑠奈を泣かせたことを猛烈に批判されるかのどちらかだろうかと思った。二番目なら二番目でいい。瑠奈の涙の訳を知ることができるかもしれない。携帯電話に内蔵されているデジタル時計の数字は、十一時過ぎであることを示している。


《起きてる》


 夕香里に合わせておれも可能な限りの短文で返信した。


《電話していい?》


 すぐにはね返ってきた。


《トイレ行くから3分後に》


 打ち返してから、用を足した。

 トイレから出て、ほとんど飲まずにぬるくなった缶ビールを一口すすり、携帯電話を握ってベッドに寝転がった。液晶画面を見つめていたが、夕香里からのコールが鳴ったのは、最後のメール送信から五分以上経ってからだ。

〈瑠奈のこと、ありがとう。あんたに会えて、とっても喜んでたよ〉

「そうか」

〈お金も返してくれたよ。間違いなく一万円〉

「黙ってて自分の小遣い銭にでもすればいいのにな」

〈そんなことできる子じゃないよ。正直で、いい子だよ〉

 おれの子だからなと言いたかった。おれとおまえの子だからなと言ってもよかった。しかし、おれには親権がない。おれは夕香里と瑠奈ととは、書類の上でも実質的にも、ずっと前から他人同士だ。

「子どもたちはもう寝たのか」

〈瑠奈は勉強してる。あおいは寝てる。今、車の中から電話してる〉

「うん」

〈あの子、なにも言わなかったでしょ〉

「ああ。妹が出来たなんて、全然知らなかったな。隠すことじゃないのに。おまえが妙な知恵を付けさせたんじゃないのか」

〈そうじゃないのよ〉

「なんだよ」

〈ごめんなさい〉

「なにが」

〈あの子ね〉

「なんなんだよ」

〈あの子、暴行を受けてたのよ〉

 ベッド上であおむけになり天井を見上げていたおれは、全身の筋が一瞬にしてこわばった。なに者かが瑠奈を殴りつけている場面を思い浮かべた。なに者かは、目も鼻も口もない黒い影だ。殴られて瑠奈は泣いている。焼き肉屋で見せたのと同じ泣き顔で、おれに助けを求めていた。

「どういうことだ」

〈ごめんなさい。わたしが悪いの〉

「だから、どういうことだって聴いてるだろ」

 要領を得ない夕香里の物言いに、おれはいら立った。

〈虐待されてたのよ。性的虐待〉

「性的虐待?」

〈ごめんなさい。そうなの〉

 体中の血の流れが止まったと思った。全ての時間も止まった。止まった時間の中で、おれは退行を始めた。死ぬ前に見るという走馬灯が逆回転しだした。おれの記憶は、新しい物から順に削除されていった。


 ――父さん。きょうはありがとう。またね――


 そう言って、中三の瑠奈は姿を消した。


 ――パパちゃん、バイバイ――


 三歳の瑠奈は手を振りながら、どこかに連れて行かれた。

 瑠奈のいない世界でおれは、エメラルドグリーンの海に囲まれた島を上空から見下ろしていた。島はおれから離れていった。おれが島から離れていった。

 島のことを知らないおれは、子どもに戻った。どんどん幼くなっていった。


 ――お父さん――

 ――お母さん――


 両親にあやされていた。そして、産道を通って母親の子宮に戻った。何兆もの細胞が結合を繰り返し、やがておれは、粒になって消えた。


〈ごめんなさい〉

 夕香里が繰り返していた。時間は動いていた。血は流れていた。心臓が大きく鼓動していた。


(「壱の15.孫である可能性」に続く)

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