壱の11.がんになるから食べちゃ駄目
島の太陽は、なかなか沈まない。丸い地球に縦線を引いて定めた経度の違いを勘案すれば、島は東京と一時間の時差を設定してしかるべきだ。赤く染まる西日を受けながらおれは、予約を入れてあるビジネスホテルに向け車を走らせた。
戦後の焼け野原から目覚ましい発展を遂げたことで奇跡の一マイルと例えられる「国際通り」の端からさらに奥まった狭い路地でカーナビゲーションが、目的地周辺であることと、任務の終了を告げた。
古めかしいホテル前におれはいったん車を止め、瑠奈を車内に残してホテルフロントに駐車場の場所を聴きに行き、改めて車に戻って指定の駐車場に車を収めた。必要な荷物を担ぎ、瑠奈をホテルのロビーのソファで待たせ、フロントに向かった。クレジットカードを持たぬことが心配だったが、難なくチェックインできた。
上階のかび臭いシングルルームに荷物を置き、急いでロビーに戻った。フロントに鍵を預け、瑠奈と並んで街に出た。
「瑠奈、食べたいものと食べたくないものがあったら言いな」
「なんでも食べられるよ」
「ゴーヤもか。耳皮もか」
「それ、父さんの嫌いなものでしょ」
「そんなことないよ。父さんは、ラフテーだって足てびちだって食べられる」
「やっぱり父さんの嫌いなものだ」
「焼き肉でいいか」
「いいよ」
おれは漫才のようなやりとりに瑠奈を巻き込みながら、焼き肉屋に向かった。国際通りから一本入った裏通りに面する、初めて訪れる者にも分かりやすいビルの二階に店はあった。
入口で、予約の有無を聴かれた。あると答えた。
「具志堅です」
隣にいた瑠奈が、目を丸くした。ウインクしたが、今度は伝わらなかったようだ。観光客と見られると値踏みされ不当に高額な支払いを吹っかけられかねないから予防線を張り、島特有の姓を偽称して予約しておいた。
店内はすいている。通りを眺められる窓際に通された。おれと瑠奈は、四人掛けのテーブルに向かい合わせで座った。
日はほぼ落ちている。しかし、渋滞してのろのろ進む車のライトと商業施設の明かりと、それらに押され気味な街灯の明るさで、窓から見える狭い通りはまるで昼間のようだ。
「最後に会ったときも、焼き肉屋さんに行ったね。東京で」
「そうだったな。父さん、焼き肉が好きだから。座敷に上がる店だろ」
「父さん、酔っぱらって声が大きくなって、瑠奈、恥ずかしかった」
「そりゃすまんかった。父さん、あのころはもう酔わない体質になってたはずなんだけどな。まあいいや。きょうはこのジョッキだけでおしまいにする。そう努力する」
優しい子だった。
おれが珍しく酔っぱらって声が大きくなったというのは、運転士も車掌もいない交通システム「ゆりかもめ」に乗ってお台場にあるフジテレビに行き、視聴者向けイベントに参加した帰りに寄った、新橋の焼き肉屋でのことだ。少し焦げた肉に瑠奈が箸を付けようとしていたから、おれはなんの根拠も深い考えもなく、がんになるから焦げてるのを食べちゃ駄目だぞと言って代わりに自分で食べようとした。瑠奈は悲愴な顔で、食べちゃ駄目えと叫んで、炭火のコンロが埋まるテーブル越しに、箸を持つおれの右手をつかんだ。声が大きくなったのは、むしろ瑠奈の方だ。
焦げた肉が本当にがんの原因になるのかどうか、おれは知らない。瑠奈は、その出所の疑わしい説の存在さえも知らなかった。おれに聴かされたばかりの信用の置けない情報で、おれががんに罹患するのを、身をていして防ごうとしてくれたのだ。
「回転ずしにも行ったね」
「行った行った。パンダを見た帰りだろ」
上野動物園に行った後、アメヤ横丁を通って抜けた先の御徒町で、全く別経営のはずの回転すし屋二軒がなにかの店舗を挟んでサンドイッチのパンのような並びで営業していた。瑠奈は両方の店を外からのぞいて、お客さんが少ない方に入ってあげようと提案した。
「あの時、生まれて初めてウニを食べようとして、食べられなくて口から出しちゃったんだよね」
「ああ、覚えてるよ」
「イクラが好きだから、軍艦巻きって言うの、イクラと似たようなもんだと思って、間違って取っちゃったんだ。なんか、ワックスみたいな食感だった。ワックスを食べたことはないんだけどさ。ああ、嫌いな物あった。ウニ」
「安い回転ずし屋だったからだよ。本物のウニじゃなかったかもしれん。ちゃんとした寿司屋さんのウニなら、おいしいんじゃないかな」
瑠奈とおれは、離れていた年月を埋めるように二人の思い出を語り合った。
「瑠奈、花やしきでジェットコースターデビューしたんだよ。四年生の時」
「そうか。ジェットコースターによく乗ったな。後楽園ゆうえんちでも、としまえんでも」
「後楽園ゆうえんち? 今は東京ドームシティって言うんでしょ」
「なんだよ、島に住んでる瑠奈の方が東京事情に詳しいじゃないか」
「瑠奈が行ったときにはもう東京ドームシティだったよ。フリーパスを買ってもらって、何度も何度も同じジェットコースターに乗った。途中から疲れた父さんを置いて、一人で列に並んで乗った。サンダードルフィンだったかな。そうだ、ドルフィンだ。イルカだ」
ディズニーランドにも行った。スカイツリーにも東京タワーにも行った。瑠奈は、形がきれいだからと東京タワーの方を気に入った。車は手放していたから、レンタカーを借りて富士山にも行った。天候が悪くて雲に覆われ山の頂が見えないのを、瑠奈は残念がった。おれは、それらの二人の思い出が、瑠奈の四年生の時のことだったか五年生の時のことだったか記憶がおぼろげなのだが、瑠奈はしっかりと区別できている。
でも、小学校低学年以前のことになると、今度は瑠奈の記憶があやふやだ。入学式におれが出席したことを知らないという。三歳まで一緒に住んでいた家のことや、パパとかパパちゃんとか呼んでいたことも、まるで覚えていない。
瑠奈の記憶の中では、おれの存在は、「父さん」からスタートしている。おれが夜見る夢には、「パパちゃん」と言っていた三歳までの瑠奈ばかりが登場するというのに。おれの脳裏に焼き付いている瑠奈の姿と、瑠奈の思い描くおれの像との時間軸がずれている。幼くして別居し、外国のような遠い場所で離れ離れになった親子とはこういうものなのだろうか。あれほど恋焦がれた愛娘の瑠奈が目の前にいるのにおれは、瑠奈と完全には思い出が合致しない事実を思い知らされ、寂しい気持ちに襲われた。
(「壱の12.ウシのイラスト紙エプロン」に続く)




