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冥闇不道のアポストル  作者: 茅井 祐世
第五章 風と共に
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第七十話

 漂都の風がひときわ強くなった夜、霧が層を裂いた。雲の下から吹き上げる気流が、街を丸ごと押し上げている。

 いつもの上昇流ではなかった。風が一方向に集中し、空の彼方へ吸い上げられている。パレアは顔を上げ、霧の中に走る微かな光の筋を見つめた。


「……流れが繋がってる。風結宮の渦と重なったわ」


 その声に、ダインが頷いた。


「つまり、行くなら今だね」


「ええ。漂都の風があの聖域に触れるのは常にだけど——“開かれている”のは今だけ」


 三人は上層の通路を駆けた。風街の灯は遠く沈み、霧が足元を洗っていく。やがて通路の先に、空が開けた。


 雲の裂け間に、白い輪のような建造物が浮かんでいる。《風結宮かぜゆいのみや》。漂都の外縁とほぼ同高度、気流の渦の中心に静止する聖域。


 石造りの跳ね橋が漂都からまっすぐ伸び、正面の広場へと繋がっていた。前に供風子と対峙した時に通った場所だ。


 だが今夜——その橋とは別に、もうひとつの流れがあった。霧の中に、目に見えぬ“風の筋”が走っている。光のように淡く、ゆるやかに揺れていた。


 パレアが掌を掲げた。


「見て。物理の橋とは違う。風の道が、重なってる」


「……二つの道が同時に存在してるのか」


「ええ。ひとつは石の道。もうひとつは“風が象る橋”」


 そのとき、背後の霧が動いた。


「理屈としては正しい」


 カタバの声だった。彼はいつのまにか通路の影から現れ、四人の横に立った。


「漂都と風結宮は常に接している。だが、風の流れが合致する時だけ“もう一本の橋”が姿を取る。儀礼では決して使われない方の道だ」


「それを……通るのね」


 パレアの問いに、カタバは頷いた。


「正面は供風子の領分だ。広場を越えれば祈りの間がある。——お前たちが向かうべきは、その奥だろう」


 風が鳴った。


 彼は手すりに足をかけ、そのまま一歩を踏み出した。足元で風が凝り、薄い膜が光る。


「これが“結び橋”。風が自らを形にした通りだ。昔の供風子たちは、儀礼の前夜にこの橋を渡り、風の巡りを確かめた。だが、もう誰も使わない。閉じて久しい」


 カタバが地面の見えない闇へ飛び上がった。見ていた全員は息を呑む。しかし、落ちることはない。風が押し上げ、体はその場に留まっている。


 恐る恐るダイン、ルリムがあとに続く。


 四人の影が霧を裂き、風の上を進み始めた。


 しばらく進むと下には、石の跳ね橋が見えた。

 それは静止しているが、こちらの風の道はわずかに揺れ、空気の層を滑るように進んでいる。その橋の終端には、白い広場が広がっていた。


 中央に、白衣の人物——供風子——が座している。


 祈りの律が、風に乗って届いた。一定の間を置いて、呼吸のように続く。風結宮の外殻が、その祈りに共鳴して微かに光っていた。


 ダインが呟く。


「……常にいるんだね」


「そうだ」


 カタバが視線を逸らさぬまま言う。


「彼女の声がある限り、正面の扉は閉ざされる。

 ——だから、俺たちは別の層へ行く」


 彼が指した先、外環の上層に細い裂け目があった。風の筋がそこに集中し、周期的に渦を巻いている。


「通気を保つための“層の合わせ目”だ。内部へ直接通じている」


 パレアが目を細めた。


「……外と内の境目が薄くなってるわ」


「俺たちが近づいた影響だ。今なら通れる」


 カタバは外套を押さえ、壁に手を当てた。風が凪ぎ、薄い音を立てる。次の瞬間、空気がほどけ、石壁が呼吸するように開いた。


 細い通路が斜めに続いている。


「ここから先は、風の記録層だ」


「……祭祀の間を経由せずに行けるの?」


「行ける。正面の儀礼路を通る必要はない。ここは供風子の祈りを“受け取る”層ではなく、“沈める”層だ」


 パレアが小さく頷いた。


「理に適ってるわね。祈りの出口を逆に辿るのだから」


 カタバの口元にかすかな笑みが浮かぶ。


「風も、たまには理屈に従う」


 供風子の祈りが続いていた。衣が光に揺れ、小さく見え隠れする。動きはまるで永遠の鼓動のように一定だった。


「行きましょう。風がまだ“道”を覚えているうちに」


 パレアが言う。


 カタバが裂け目に身を滑り込ませ、三人があとに続く。


 内部は螺旋階段がどこまでも続いており、ひどく冷たく暗かった。石の通路は狭く、壁を流れる風が低く唸っている。


 気付けば供風子より下の位置まで来たようで、上方から、微かに祈りの声が滲んでくる。


 ルリムがささやく。


「……聞こえる?」


「上の風だ。ここは別の流れだ」


 カタバの答えは淡々としていた。


 進むほど、空気が乾き、音が遠ざかる。

 風が生きているのか、ただ留まっているのか判別できない。ダインの喉に金属の味が残る。


「ここが、祭祀の間の下層……?」


「そうだ。風の声を拾うための層。人は入らない」


 やがて通路の奥に光が見えた。壁の隙間から、淡い風が吹き込んでくる。


 カタバが立ち止まり、振り返る。


「この先が、記録の間だ。風が通り抜けることを許した場所。——行け」


 パレアが頷き、ダイン、ルリムが続いた。

 風が揺れ、光が裂ける。三人の影が、風結宮の奥へと溶けていった。


 背後で、カタバの声が微かに響く。


「……これが、本当の“結び”だ」


 風はその言葉を飲み込み、静かに沈黙した。外では、供風子の祈りが絶え間なく続いていた。

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