第六十九話
夜が明けきらぬ頃、漂都に淡い朝霧が降りていた。布屋根の影が白に溶け、風街の灯がゆっくりと消えていく。夜のざわめきは跡形もなく、かわりに風鈴の余韻だけが残っていた。
ダインは目を覚ました。
狭い宿の一室。壁際の机には、パレアの手書きの記録が散らばっている。
水脈図、気圧の変動、風の流速——そのすべてが緻密に記されていた。
パレアはもう起きていた。窓辺で霧に触れるように指を動かし、静かに詠唱する。
「式号六番——『わたしを包む、静謐の膜』」
淡い水膜が広がり、空気が音を吸い込むように沈黙した。足音も、外の風も、遠くの人声もすべて消える。その静けさの中で、パレアは小声で言った。
「風に聞かれないようにしましょう。ゼファレインでは、言葉そのものが風に記録されるの」
「……記録?」
ダインが首を傾げる。パレアは指先で空気を撫で、微笑んだ。
「ええ。風は耳を持つわ。誰かの声、心の震え……全部、流れの中に残していくの。だから、話すなら“流れを閉じた場所”でないと」
毛布の中から、ルリムがむくりと顔を出す。
「じゃあ、寝言も聞かれちゃうの?」
「内容によっては風が笑うかもね」
「やだぁ……!」
ルリムの寝ぼけ声に、パレアが小さく吹き出す。そのわずかな笑いが、凍えた朝気をやわらげた。
「……さて。今日からが本番よ」
パレアは机の地図を広げた。
そこには《風結宮》を中心に、風脈の流れが幾重にも描かれている。青い線が交錯し、まるで大気そのものを写したような複雑さだった。
「正面からは無理。巡風座の警戒が強いわ」
「巡風座?」
「供風子を守る一団よ。風結宮の“祈りの流れ”を乱す者を遠ざけるための、いわば見えない番人。……でも、裏道がひとつだけあるの」
「カタバの言ってた、封印の跡……?」
「ええ。正式には“閉じられた風の通り道”。昔、供風子が儀式に使っていた導路よ。今は封印されているけど、風は完全には止まらないの」
ルリムが身を乗り出す。
「通れるの?」
「通り抜けられる時間は短いけれど、可能よ。……風の揺らぎを見極めればね」
「揺らぎ……?」
パレアは地図に描かれた線のひとつをなぞった。青銀の光が指先で瞬く。
「風は一定に見えて、実は鼓動しているの。その“間”をつかめれば、封印の外郭まで辿れるはず。ただし、夜明け前には流れが変わる。……明日の朝までに突破しなきゃ」
ダインは深く息を吸った。
「じゃあ、今日一日で準備を整えるんだね」
「ええ。今夜は風街をもう一度歩くわ。揺らぎを読むために、風を“聴く”の」
※
昼の風街は、夜とはまるで違う顔をしていた。
果実と香草の匂い、笑い声、風鈴の音。
しかしその喧噪の底に、かすかなざわめきが混じっている。風の向きが変わるたびに、耳鳴りのような囁きがするのだ。
「……感じる? これが“巡り”よ」
パレアが立ち止まった。
人の流れの中、彼女だけが別の風を見ているようだった。視線の先には、古びた石塔がある。塔の根元に、風と水が交差する印——羽と波が刻まれていた。
彼女は静かに詠唱する。
「式号九番——『さざ波は囁く、道を開けと』」
足元に青い水の筋が走り、路地の埃を洗い流す。
その瞬間、石塔の下に隠れていた紋が光った。淡い光が螺旋を描き、空気が震える。
「ここね。……封印導路の始まり」
「本当にあったんだ……」
ダインの声が驚きに滲む。パレアは小さく頷いた。
「水は流れを探すもの。閉ざされても、どこかで息をしている。——風も同じよ。だからこの国では、封印を“眠らせる”って言うの」
ルリムが小さく笑った。
「じゃあ、風と水は友達だね」
「ええ。けれど時々、喧嘩もするのよ」
三人の影が並ぶ。午後の風が屋根を渡り、光を細かく砕いて降らせる。
遠くで誰かが笛を吹いていた。その音は、どこまでも澄んでいて、どこか悲しかった。
※
夕刻。
風街の灯が再びともるころ、三人は宿へ戻っていた。ルリムは窓辺で頬杖をつき、薄橙の空を見上げている。
「ねえ、明日……ほんとに行くんだよね」
「ええ」
パレアが静かに頷く。
「怖い?」
「まあ、ちょっとだけ……ね」
その言葉に、パレアは微笑んだ。
「風はただ、祈っているだけ。風結宮は“問う場所”。戦うためじゃなく、問いを捧げるためにあるの」
「問い?」
「“なぜ風は止まらないのか”“なぜ神は沈黙するのか”。——この国では、答えを求めるよりも、問い続けることが信仰なの」
ルリムは静かに息を飲んだ。彼女の横顔に、ほんの少しの憧れが差す。
「あなたが見たものを、風は覚えてくれる。だから、あなたも忘れないで」
「うん……忘れないよ」
ダインは二人のやりとりを黙って聞いていた。
リンを救うための旅路、その先にある真実。怖さよりも、今は決意が勝っていた。
「……行こう。準備は全部、今夜中に終わらせよう」
パレアが頷き、ルリムが拳を握る。風が部屋を通り抜け、帳が揺れた。
夜が、静かに戻ってくる。
※
カタバは漂都の下層にいた。
風の抜ける石橋の上、ひとり、古い封刻をなぞっている。刻まれた文字はもう風化していたが、その文はまだ読めた。
——「風は語らず、ただ見届ける」
「……見届ける、か」
呟く声に、風が応える。
カタバは目を閉じ、呼吸を合わせた。風が流れる方向を読む。今夜の流れは穏やかだ。嵐の前の静けさ——それが、確かに街全体を包んでいる。
「……流れは、整いつつあるな」
封刻の中心に指を当てると、淡い光が浮かぶ。
風が石の隙間を走り抜け、遠くで風鈴が鳴った。ダインたちの気配が近づいている。カタバの中で、忘れかけていた“希望”が微かに息をした。
夜の底から、静かな風が立ち上る。漂都の灯がひとつ、またひとつ消えていく。明日、風は新しい道を描くだろう。
その先に待つのが、問いか、それとも答えか——まだ誰にも、わからなかった。




