第六十八話
漂都の夜が、ゆるやかに流れていた。
雲をまとうような布屋根が風を孕み、灯火が波のように揺れる。ここは風街。風が最も低く流れる層。昼よりも人が多く、香辛料と果実の匂いが混じり合っていた。
その雑踏の中を、フードを深く被った三人が歩いていた。
ダイン、ルリム、パレア。
肩を並べながらも、誰も言葉を発さない。人の波に溶けるように、息を潜めて進んでいた。
「……このあたりで道具は揃うわね」
パレアが小声で言う。手にした紙片には、必要物資の走り書きがある。
「風結宮に入るには、灯と縄、それに刃物が要るわ。……忘れ物はない?」
「これで全部だね。食料も干し果実と乾パン、それに水袋」
ダインが袋を肩に掛ける。
ルリムは小さく笑い、網袋の中から光る石片を取り出した。
「見て。これ、神落の大脈で道標に使えそうじゃない?」
「お前、それ……目立つぞ」
「自然でしょ? ほら、風に光るんだよ」
その無邪気な声に、パレアの口元がわずかに緩む。
「あなたたち、もう少し“隠密”という言葉を覚えなさい」
風が通りを抜け、布屋根が音を立てて鳴った。
灯の粒が夜空の下で舞い、誰かの笑い声と鈴の音が遠くで溶け合う。
その音に惹かれるように、ルリムが立ち止まった。
「あれ……氷菓子?」
通りの端、小さな屋台に瓶詰めの氷が並んでいた。灯に照らされて、瓶の中で光が反射している。
「ちょっとだけ、寄っていい?」
「……ちょっと、ね」
「やった!」
老女が穏やかに笑った。
「旅の人かい。風の夜へようこそ。氷菓子は溶けやすいけど、心までは冷やさないよ」
「ふふ、いい言葉ね」
パレアが微笑むと、ルリムが小瓶を受け取った。
老女は軽く手を振る。
「ありがとうね。……風と共に」
「風と共に……?」
ダインが首を傾げる。老女はにこりと笑んだ。
「ここでは挨拶さ。風は巡る。だから“風と共に”生きていれば、また会える——そういう意味だよ」
「また会える、か」
ルリムが小さく呟く。氷菓子を口に含み、頬をほころばせた。
「冷たっ……でもおいしい!」
その声に、パレアも目を細めた。
「平和ね。……戦いの前に、こうして笑えるのは貴重だわ」
「うん、久しぶりだよ。こういうの」
夜風が三人の間を抜け、提灯の光が遠ざかる。ルリムが名残惜しそうに小瓶を抱えて言った。
「またね。風と共に!」
「風と共に」
老女の笑い声が、風の中に溶けていった。
静かな通りに戻ると、三人の足音だけが残る。
「風と共に……いい言葉だね」
ダインが呟く。パレアはそっと頷いた。
「風が止まらない限り、きっと、また巡り合える。……そういう信仰なのよ」
ルリムは笑いながら、その言葉を風へ預けた。風が微かに応えるように、彼女の銀髪を揺らした。
※
同じ頃、カタバは別の路地を歩いていた。
風結宮へと通じる裏道——古い封印の痕跡に指を滑らせる。掌に感じる空気の震えが、かすかな流れを教えてくれる。
「……明日は、嵐になるな」
誰に言うでもなく、低く呟く。
頬を撫でた風が、わずかに甘い香りを運んできた。果実の匂い——風街の屋台からのものだと気づく。
遠くで、笑い声がした気がした。
ルリムの高い声、パレアの穏やかな調子、そしてダインの笑い。
それらが風に混ざり、淡く消えていく。
カタバの口元が、わずかに緩んだ。
「……いいことだ。戦う前に笑っていられるのは、強さだ」
屋根の縁に立ち、夜空を見上げる。漂都の灯が星のように瞬いていた。風が衣の裾を巻き上げ、彼はその流れを目で追う。風脈が街の上空を巡り、どこか遠くへと吸い込まれていくのが見えた。
「……流れは、悪くない」
その言葉に、風が微かに応える。
彼は東の空を見据え、息を吐いた。
——明日、風はまた吹く。
それが誰のための風となるのかは、まだわからない。だが今だけは、この穏やかな風が、彼らの笑い声を運んでいる。
その事実だけで、十分だった。




