第六十六話
木々のざわめきは、次第に一つの律動へと変わっていく。葉の擦れ合う音が、あたかも「声」のように彼を呼んでいる。
まただ。確かに耳の奥で、名を呼ぶ声が重なった。
草に覆われた石段を抜け、獣道に似た細い道を進む。そこは人の往来が絶えて久しいのか、苔に沈んだ岩と倒木が無秩序に転がっている。けれど不思議と歩みは滞らない。まるで、足元を払うように風が通り抜け、行くべき道を示してくれているかのようだった。
やがて林が途切れ、窪地の奥に小さな空き地が広がる。風はそこで一度凪いだ。葉擦れの音も消え、耳に残るのは自分の鼓動だけ。
その中央に、ひとつの人影があった。
倒れた大木に腰をかけ、腕を膝に乗せ、うなだれるように座っている。男のようだが、顔は影になってよく見えない。衣は灰色にくすみ、旅装とも僧衣ともつかない。長く伸ばした黒髪が風に靡き、その隙間から覗く頬はやせ細っていた。
まるで、ずっと昔からそこに座っていたかのような気配。
ダインが一歩踏み出したとき、その人影がかすかに動いた。
「……来たか」
掠れた声。だが、確かにこちらを知っている者の響き。
ダインは思わず足を止めた。
「あなたは……?」
男は顔を上げた。
黒曜石のように濁りのない瞳。だが光を映していない。深淵を覗くような暗さがそこにはあった。
「名か……。今は“カタバ”と呼ばれている」
「カタバ……?」
「名を失った者の呼び名だ。かつては別の名で呼ばれていた。だが、風の声を拾う者は、元の名を棄てねばならない。……それが掟だ」
ダインは息を呑む。風結宮で見た碑の言葉が脳裏を過った。
《風ヲ語ルナカレ。声ハ、裏返ル》
「あなたも……“供風子”だったってこと?」
問いに、男はかすかに笑んだ。笑みというより、己を嘲るようなひきつった仕草だった。
「そうだ。風を聞く役目を与えられ、聞き続けた。……聞いてはならぬ声すらも。だから追放された。名も、立場も、居場所も失った。残ったのは、この身一つだけだ」
ダインは言葉を失った。
だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、目の前の男からは妙な親近感が漂っていた。
「……さっき、僕の名前を呼んだのはあなたの声じゃないの?」
「いや、違う」
カタバは即答した。
「呼んだのは風そのものだ。あるいは、風を介して“何か”が語ったのだろう。お前にしか届かぬ声……それは、選ばれた証でもある」
「選ばれた……?」
ダインは眉をひそめる。ルリムの言葉、パレアの視線、代弁者……。頭の中で交錯した。
カタバはゆっくりと立ち上がった。思っていたより背は高く、痩せた体躯を長い外套が包み込んでいる。
その姿は、まるで風そのものに削られた木像のように儚かった。
「お前の中には、二つの流れがある。雷の奔流と……闇の淵。今の世に相容れぬ二つが、同じ器に収まっている。だから風はお前を“異物”と呼び、同時に“必要なもの”として導いた」
「……どうして、そんなことまで知っている?」
「俺はかつて、風の語らぬ記録を覗いた。そこには、失われた霊種のことが記されていた。氷、雷、闇……そして光を殺した王のことも」
その言葉に、ダインの胸が強く脈打った。
「光を殺した王……?」
聖炎の王国、グラヌスク。かつてルリムを洞窟の奥まで追い詰めた国。ダインの生まれ故郷であり、首に刃を突きつけている国。その王が、光を殺した……?
「お前は知らねばならない。世界がどうやってこの形になったのか。そして……お前が何者であるのかを」
カタバの声は低く、だが確信に満ちていた。
ダインは拳を握りしめる。心の奥で、かすかな恐れと期待がせめぎ合っていた。
“自分は何者なのか”——それを知るためなら、この先に踏み込まねばならない気がした。
「……教えてくれる?」
「いいや」カタバは首を横に振る。「俺は語らない。語れば、再び風を裏返すことになる。……だが、“見せる”ことはできる」
「見せる?」
「そうだ。風に刻まれた記録がある。この地の奥に眠る、神落の大脈。お前が触れれば、風は真実を開くだろう」
耳の奥で、再び風が鳴った。
《ダイン……ダイン……アルゴール……》
今度ははっきりと、自分の名前を呼ぶ声。
カタバはその声を聞きとめたように目を細め、ゆっくりと頷いた。
「——行く覚悟はあるか、少年」
その問いに、ダインは無意識に頷いていた。




