第六十五話
風結宮をあとにした一行は、漂都の外郭へと向かっていた。ここは本来、旅人が通る道ではない。舗装もされていない、草に覆われた石段がゆるやかに丘へと続いている。
風は、まだ冷たい。だが広場に満ちていた張り詰めたものとは異なり、どこか落ち着いた気配があった。
「……風が、少しだけ和らいだように思えるな」
ルリムが呟くと、パレアが小さく頷く。
「ここは、供風子たちの“修練の小径”だった場所。記録ではそうなってる。……公式の巡路からは外されてるけど、信仰の原型を探るには悪くないわ」
彼女はそう言って、懐から折り畳んだ羊皮紙を取り出す。風に触れて波打つそれは、かすれた文字と消えかけた印で縁取られていた。
「これ、ヒュラテスに残ってた写本の写し。“巡風座”より古い信仰の痕跡。……この辺りに、祈りの霊碑が埋もれてるかもしれないの」
「埋もれてる?」
ダインが思わず聞き返すと、ルリムは無表情に、けれどどこか確信をもって答えた。
「ゼファレインでは、“語られなかった風”の痕跡を封じるように埋葬することがあった。“風が語られぬとき、それは死に至る”——そんな言い伝えも残ってる」
草をかき分け、石段を踏みしめながら、彼らはやがて木々に囲まれた凹地にたどり着いた。
そこはわずかに窪んだ風溜まりのような地形で、落ち葉に埋もれた祠の礎石が見える。
パレアは膝をつき、落ち葉を払う。その手つきはまるで、水底の砂を掬いあげるようだった。
「……ここよ。あった」
石の板。手のひらほどの大きさのそれには、風紋のような文様が彫られていた。だが、それは明らかに破損しており、中央から斜めに亀裂が走っている。
ルリムがその周囲の苔を丁寧に剥がし、細かな文様の列を読み取ろうとする。
「これは……風語ではない。もっと古い、記録の形式。霊律符文——風に祈る“行い”の記録よ」
霊律符文。ダインには初めて聞く言葉だったが、パレアは軽く目を細めた。
「その符文、形式が奇妙ね。通常は“願いの風”から始まるはずだけれど……」
「始まってないのよ、これ。“祈りを拒まれた碑”かもしれない」
ルリムは声を落としながら、指先で碑の右下をなぞった。そこに小さく刻まれていたのは――
《風ヲ語ルナカレ。声ハ、裏返ル》
冷気が、あたりの空気を締めつけるように満ちる。
「……呪式よ。語った風を、“語られた風”にしないためのもの。ここに残されたものは、おそらく“祈ってはならない記録”」
ダインが息を呑むのがわかった。風に語ってはならない。祈ってはならない。
それは、何かを“遺す”信仰ではなく、“忘れる”ための行いだ。
そこへ、シェルファがぽつりと呟いた。
「……じゃあさ、その“語られなかった風”って、どこに行くのかな?」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
しかしダインだけは、胸の奥に微かな違和感を覚えていた。風が、何かを訴えかけるように、耳の奥で揺れていたのだ。
ただの風音にしては、あまりに“意志”を帯びすぎている。
——……アル……ゴル……
ごく微かな声が、風に紛れて届いた。
誰かの名を呼ぶような響き。聞き間違いにしては、あまりに明瞭だった。
「……誰かが……呼んだ?」
ぽつりと呟いたダインの声に、ルリムとパレアが振り向く。
「ダイン?」
「ごめん……少し、風を追ってみる。気のせいかもしれないけど……ただの風じゃない気がするんだ」
その眼差しには、確かな“何か”を捉えた感覚が宿っていた。ルリムはしばし迷ったが、やがて小さくうなずく。
「行って。……でも、すぐ戻ってきて」
「うん。ありがとう」
そしてダインは、誰にも気づかれぬようにそっと風の中へと踏み出した。
風が、再び流れを変える。
彼の背中を押すように、静かに、しかし確かに。




