第四十七話
ゼファレインへ至る旅路は、地図に記されたものではなかった。風の国は、どの国とも違う。道標ではなく、風の巡りそのものが方角を示す。
それは、かつて水を読むことで命を繋いだヒュラテスの民にとっても、異質な流れだった。
アクタ連山の麓。草を噛む音が、時折だけ聞こえる静寂の中、三人は小さな焚き火を囲んでいた。火は小さい。煙が上がれば追跡の目に触れる。
ルリムは横になり、疲労のため、すでに微かに寝息を立てている。パレアは何やら帳面を開き、風の湿度と気圧の変化を記録しているようだった。
ダインは、持ってきた水袋を手に、山から流れる小さなせせらぎを見つめていた。
「……風って、目に見えないのに、進むべき道を教えてくれるんだね」
ぽつりと、誰にともなく呟く。
パレアが、それに応えるように言う。
「目に見えないものほど、意志を持つの。風も、水も。……そして、あなたの闇もね」
ダインは、視線を落とす。
あの戦いの記憶。力を振るったあの瞬間。“何か”が自分の中で蕾を開けたことを、ダインは理解していた。
「ずっと聞こえていた声——あれは、きっと神の声だったんだと思う」
「君は“水の声”も理解していた。神の意思は夜半のの水の揺らぎ。見つめても普通は見えない。」
パレアはこちらをまっすぐに見つめている。ダインはその視線の強さに気づいて顔を上げた。
「君は、アポストルよ。闇の」
その静かな声に、ダインは息を呑んだ。パレアは、そういう人だった。厳しくて、遠くて、でも——誰よりも、人のことを見ている。
焚き火を包む闇。世界を包むこの闇は、失われた時、夜は来るのだろうか。
乾き切っていない木がひとつ、音を立てた。
翌朝、風が変わった。
空が高い。雲が引き裂かれるように動いている。ルリムが目を覚まし、空を仰いでぽつりと呟く。
「……風の、気配が違う」
「ええ。漂都が近いわ。おそらく、今日中に“兆し”が見える」
パレアの言葉に、三人の胸に緊張が走る。
だが、それは恐れではない。風が導くものは、追跡ではなく、出会いだった。
さらに進むうちに、山の尾根から遥か彼方に“線”が見えた。薄い、透明な流線のようなものが、空を横断している。
風の都——漂都の、航跡。
まるで、天を裂いた痕跡のようであり、神が地図に引いた一本の線にも見えた。
やがて全貌を見せたそれは、空を飛ぶ街そのものだった。巨岩だとか、島ではなく、家々そのものの集合体。
「……あるんだね、本当に。空を飛ぶ都なんて……」
ダインの声は、どこかうわずっていた。実感と驚愕の狭間。
「“漂都”は、風と共にあらねば生きられない都市。止まれば死ぬ。水と違うのは、風を掴み、読まなければ墜ちる。……生き方そのものが、風の試練なのよ」
パレアのその言葉に、ルリムが小さく頷く。
「それって……私たちと同じだね」
「……え?」
「進み続けなきゃ、呑まれる。止まったら、終わっちゃう」
風が吹いた。
今度の風は、確かに“人の気配”を運んでいた。
ゼファレイン——その名を抱いて、空に在る都市。彼らの旅路は、風の本流に乗り始めていた。




