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冥闇不道のアポストル  作者: 茅井 祐世
第四章 神の在処
46/75

幕間

 風が、重かった。


 どこか湿り気を含んだ夕風が、グラヌスク本営の外縁を吹き抜けていく。訓練場に、一人の青年が立ち尽くしていた。


 カーター・アウグスト——若き騎士。まっすぐな眼差しを持つ、将来を嘱望された男。


 だが今、その目は揺れていた。


 「……ダイン・アルゴール」


 ぽつりと、風に乗せて名を落とす。それは、彼が“逃した”少年の名だった。意図して、見逃したのだ。


 自分の槍が届く距離にあったはずの彼を、カーターは追わなかった。


 なぜか——いや、わかっていた。あのとき既に、少年の目に「敵」はなかった。苦悩と決意、恐怖と慈しみが交錯する、あの目。


 カーターは、生まれて初めて、槍を向ける相手を見失ったのだ。だが、それでも自分は信じていた。


 彼は罪人だ。だというのに、守るために力をふるう、穢れない魂の持ち主。たとえ命じられても、斬ってはならない魂だった——。


 それが、甘さだと言うのなら。


 

           ※



 “アドラス・ロスヴァルト、敗れる”。


 それは報告というにはあまりに淡々と、しかし、雷鳴のように騎士団内を駆け巡った。


 相手の名は明記されていた。


【敵性存在1:ダイン・アルゴール/性別:男/年齢:16歳/創霊力:雷】


【敵性存在2:ルリム・シャインコード/性別:女/年齢:不明/創霊力:氷 アポストル】


【聖炎騎士団・特任戦士アドラスとの交戦記録——アドラス、装備損壊により撤退】


 カーターは拳を握った。


 指先が白くなるほど、力が入る。


 「……どうする、俺は」


 槍を手にして、信じてきた。聖炎の秩序を守るために、剣を取るのだと。神に祝福された者として、民を導く光となるのだと。


 だが——


「俺が見逃したあの少年が、アドラスを……!」


 それは恐れではない。驚きでもない。疑問だった。


 どうして、彼が生き延びた?


 どうして、アドラスは彼を屠らなかった?


 どうして、自分はあのとき、手を下せなかったのか?


 それとも、全ては繋がっていたのだろうか。


「……見えてなかったのか、俺には」


 あの少年の中に灯っていた“何か”を。


 それは決して、闇や暴力ではなかった。


 胸の奥底で静かに燃える、柔らかく、それでいて強靭な炎。


 “誰かのために、力を使う意思”


 カーターは、そのあり方に覚えがあった。


 それは、自分が憧れた“騎士”そのものだった。


——なら、彼は、本当に敵だったのか?


 語りかけるように、自分の影より高くそびえる愛槍を見上げた。過酷な鍛錬に耐え、幾度も任務を共にくぐり抜けてきた相棒。


 その槍先が、夕陽を受けて赤く染まっていた。


 まるで、問い返されているようだった。


「お前の正義はどこにある」と。


 そのとき、不意に後方から声がかかった。


「カーター隊長、次の任が決まりました」


 若い副官が、書状を抱えて立っていた。


 だが彼はすぐに違和感に気づき、声を潜めた。


「……顔色が、悪いですね。例の件が、堪えているんですか?」


 カーターは答えなかった。


 否定も肯定もしない。


 ただ、書状を受け取ると、そっと懐に仕舞い込んだ。


「……行き先は?」


「風の国、ゼファレインです。先遣隊が創霊力(アフレイタス)の残滓から推定し、そちらへ向かったのでは、という報告が」


 “彼”——いや、ダインはそこにいるのか。


 カーターは、薄く目を伏せた。


「……準備しろ。すぐにここを発つ」


「え?」


「俺の目で、もう一度確かめる」


 その声に、迷いはなかった。けれど、どこか寂しさを孕んでいた。


 槍を背に背負い、カーターは沈みゆく夕陽へと背を向けた。かつて信じた“正義”が、色を変えていく音がした。


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