幕間
風が、重かった。
どこか湿り気を含んだ夕風が、グラヌスク本営の外縁を吹き抜けていく。訓練場に、一人の青年が立ち尽くしていた。
カーター・アウグスト——若き騎士。まっすぐな眼差しを持つ、将来を嘱望された男。
だが今、その目は揺れていた。
「……ダイン・アルゴール」
ぽつりと、風に乗せて名を落とす。それは、彼が“逃した”少年の名だった。意図して、見逃したのだ。
自分の槍が届く距離にあったはずの彼を、カーターは追わなかった。
なぜか——いや、わかっていた。あのとき既に、少年の目に「敵」はなかった。苦悩と決意、恐怖と慈しみが交錯する、あの目。
カーターは、生まれて初めて、槍を向ける相手を見失ったのだ。だが、それでも自分は信じていた。
彼は罪人だ。だというのに、守るために力をふるう、穢れない魂の持ち主。たとえ命じられても、斬ってはならない魂だった——。
それが、甘さだと言うのなら。
※
“アドラス・ロスヴァルト、敗れる”。
それは報告というにはあまりに淡々と、しかし、雷鳴のように騎士団内を駆け巡った。
相手の名は明記されていた。
【敵性存在1:ダイン・アルゴール/性別:男/年齢:16歳/創霊力:雷】
【敵性存在2:ルリム・シャインコード/性別:女/年齢:不明/創霊力:氷 アポストル】
【聖炎騎士団・特任戦士アドラスとの交戦記録——アドラス、装備損壊により撤退】
カーターは拳を握った。
指先が白くなるほど、力が入る。
「……どうする、俺は」
槍を手にして、信じてきた。聖炎の秩序を守るために、剣を取るのだと。神に祝福された者として、民を導く光となるのだと。
だが——
「俺が見逃したあの少年が、アドラスを……!」
それは恐れではない。驚きでもない。疑問だった。
どうして、彼が生き延びた?
どうして、アドラスは彼を屠らなかった?
どうして、自分はあのとき、手を下せなかったのか?
それとも、全ては繋がっていたのだろうか。
「……見えてなかったのか、俺には」
あの少年の中に灯っていた“何か”を。
それは決して、闇や暴力ではなかった。
胸の奥底で静かに燃える、柔らかく、それでいて強靭な炎。
“誰かのために、力を使う意思”
カーターは、そのあり方に覚えがあった。
それは、自分が憧れた“騎士”そのものだった。
——なら、彼は、本当に敵だったのか?
語りかけるように、自分の影より高くそびえる愛槍を見上げた。過酷な鍛錬に耐え、幾度も任務を共にくぐり抜けてきた相棒。
その槍先が、夕陽を受けて赤く染まっていた。
まるで、問い返されているようだった。
「お前の正義はどこにある」と。
そのとき、不意に後方から声がかかった。
「カーター隊長、次の任が決まりました」
若い副官が、書状を抱えて立っていた。
だが彼はすぐに違和感に気づき、声を潜めた。
「……顔色が、悪いですね。例の件が、堪えているんですか?」
カーターは答えなかった。
否定も肯定もしない。
ただ、書状を受け取ると、そっと懐に仕舞い込んだ。
「……行き先は?」
「風の国、ゼファレインです。先遣隊が創霊力の残滓から推定し、そちらへ向かったのでは、という報告が」
“彼”——いや、ダインはそこにいるのか。
カーターは、薄く目を伏せた。
「……準備しろ。すぐにここを発つ」
「え?」
「俺の目で、もう一度確かめる」
その声に、迷いはなかった。けれど、どこか寂しさを孕んでいた。
槍を背に背負い、カーターは沈みゆく夕陽へと背を向けた。かつて信じた“正義”が、色を変えていく音がした。




